「一番のおすすめは山ですね」
取材中、学生や教員から何度も耳にした言葉だ。「一度は必ず登ってください」とまで言われたその山では、写生の授業はもちろん、タイポグラフィの授業も行なわれているという。
東北芸術工科大学は、かつて「不忘山(わすれずの山)」と呼ばれ、火山としても恐れられた蔵王連峰の麓に位置している。自然がすぐそばにありながら、山形駅へも車で15分ほどと市街地にもほど近い。
日本の美大といえば、東京藝術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学など、東京周辺に有名大学が集中しているが、その多くは(東京藝大の上野校地を除いて)都心から離れた郊外にキャンパスを構えている。
しかし東北芸術工科大学は、山形という地方都市に位置し、市街地の目と鼻の先にキャンパスを構えるという、東京の美大とは対極的な存在だ。
全国に発信するアートプロジェクト
1992年に開学した東北芸術工科大学(以下、芸工大)は、来年で設立30周年を迎える。学部はアート系(芸術学部)とデザイン系(デザイン工学部)に分かれており、とくにアート系の学科・コースには、全国的に知名度の高いプロジェクトがいくつもある。
そのひとつが「東北画は可能か?」だ。日本画コースの教授・三瀬夏之介氏が中心となって2011年に始められたプロジェクトで、すでに10年にわたり継続している。
その概要はこうだ。日本では、有名美大が東京に集中していることからもわかる通り、アートの「現場」が東京に偏っている。それでは、東京から遠く離れた地方=東北から、アートを発信することは可能なのか? そんな問題意識のもと、「日本画」を意識した「東北画」という架空のカテゴリーが立ち上げられた。
このプロジェクトは大きな関心を集め、昨年には、京都市京セラ美術館の「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019」展にも出展するなど、大学のいちプロジェクトを超えた展開を見せている。
また「T.I.P.」(TUAD Incubation Program/ティップ)は、美術科に所属する学生の中から希望者を募って実施されるアーティスト養成プログラムだ。選抜された学生には、専用のアトリエと教員2名の特別指導が与えられる。
2019年度に始動し、今年で3年目を迎えている。以前に筆者も東京都美術館でT.I.P.の展示と講評を覗いたことがあったが、学生や教員の強い熱気に圧倒されてしまった。1期生はキャンプファイヤーで学外からの支援も集めるなど、注目が集まりつつある。
ほかにも、昨年TDでレポートした山形ビエンナーレや、アーティスト・コレクティブ育成プログラム「the Team」など、毎年のように、新しく革新的なプロジェクトが打ち出されている。
地域に根差したデザインプロジェクト
その一方、デザイン系のプロジェクトについては、これまであまりその話題を耳にすることがなかった。
それもそのはず。芸工大では、全国を視野に入れたアートプロジェクトと、地域に根差したデザインプロジェクトに、大きくその方向性が分けられているのだ。
デザインにおける地域連携を象徴する存在が「東北芸術工科大学 共創デザイン室」だ。これは「地域と共に創る」を合言葉に、地元の産業と学生を結ぶ産学連携窓口である。クライアントからの相談を専門職員がヒアリングし、その案件が授業やプロジェクトに組み込まれていき、現在では年間100本以上(!)のプロジェクトが進行しているという。
こうした全体の見取り図を描いているのが、学長の中山ダイスケ氏である。
中山氏は、武蔵野美術大学を中退したのち、現代美術作家として独立し、1997年にはニューヨークにスタジオを構えた。長年にわたりアーティスト/アートディレクターとして第一線で活躍後、2007年に芸工大の教授に就任。2018年からは学長職に就いている。
前編では、中山氏へのインタビューを、そして後編では、中山氏が教鞭をとるグラフィックデザイン学科の学生3人にインタビューを行なった。現在、国内では顕著な発信を続けている東北芸術工科大学のいまに迫りたい。
町と地続きの大学
中山ダイスケ氏(以下敬称略):一番の違いは、大学の成り立ちです。東京美術学校から発展した東京藝大と、帝国美術学校から分離したムサビとタマビは、そもそも「芸術を学ぼう」という発想から生まれました。それに対して本学は、「社会の中にアートやデザインの力が必要だ」という社会希求から生まれたんですね。
だから本学では、アート界やデザイン界に人を送ることよりも、社会の中でいかにアートやデザインを機能させるかが重要だと考えています。そんな姿勢を象徴しているのが、大学のキャンパスです。塀も門もなく、町となだらかに繋がる設計になっています。おそらく芸工大は、全国で一番市街に近い美大なんじゃないでしょうか。
町に直結しているので、町の人が学食に来ることもあるし、ぼくらも午前中に町で用事を済ませて午後に大学に来ることもよくあります。町と大学の距離感が理想的で、ぼくはいつも「ここから見える盆地全体が教室だよ」と学生たちに言っています。
ここで作られる作品は渋谷パルコで展示されるわけでもなければ、デザインが全国で商品化されるわけでもないかもしれない。でも芸工大でなら、山形という町からお題をもらってアートやデザインで応答していくという教育モデルが実現できるはずだと思いました。
中山:ここでポイントになるのは、山形県には47都道府県で唯一、県立の美術館がないということ。もともとアートやデザインが文化の礎として存在していた町ではありませんでした。それよりも四季が美しく、食べ物が美味しく、日々みなさんが季節の作業に追われているような豊かな土地です。
そんな場所でアートやデザインをおこなうためには、地域との連携が必要不可欠です。つい先ほども、山形県の職員の方が大学に来ていましたが、山形県、山形市、鶴岡市など、これまでにもたくさんの行政とのプロジェクトを進めてきました。
中山:酒田駅前の再開発プロジェクトでは、酒田市からの依頼を受け、駅前に整備された公共施設の愛称「ミライニ」の命名とロゴデザイン、図書館のサインデザイン、アートイベントの企画・運営などをおこないました。
ぼくの所属するグラフィックデザイン学科では、鶴岡駅前の再開発も担当しています。ほかにも山形空港や庄内空港など、空港の新しいあり方を模索したり、山形市の中心市街地の空洞化対策として商店街の空き家や空きビルを学生寮に変える取り組みもおこなっています。
中山:まずは共創デザイン室で依頼を受けます。年度単位で授業が動くので、年度末までに何かしら形にできるようスケジュールを組み立てます。1年以上前に話があった場合は、次年度の授業に組み込んでしまおうとか、逆にスケジュールに余裕がない場合は、学生に募集をかけてチュートリアル的に進めることもありますね。共創デザイン室にはデザインの知見をもった職員がいるので、内容を見ながら、割り当てる学科・コースを検討し、予算やスケジュールを調整するという流れになります。
中山:芸術学部で開設している「東北画は可能か?」や「T.I.P.」は、どちらかというと全国を意識しています。というのも、アートにはどうしても都市に頼らざるを得ないところがあるからです。地方芸術祭などで発表の場が地方になることはありますが、いち作家として社会に出ていくためには、どうしても東京を経由しないといけない。「東北画」は「対東京」としての位置付けでもあるんです。
それと「東北画は可能か?」という名前は、地方で大自然と歴史を見つめながら「ここでしか描けない絵が本当にあるんだろうか?」という問い掛けでもあります。世界に対する「日本画」がそうであったように、日本に対する「東北画」があり得るのかを、10年にわたって模索しているんです。それはそのまま「東北でアートが学べるの?」という問いに対する本学としての答えでもあります。
中山:これと同じ問いがデザインにも投げかけられることがあります。「そんな田舎でデザインを学べるの?」と。それに対する答えは「こんなにたくさんのプロジェクトを実践している美大はほかにありませんよ」です。芸工大では、年間100本以上のプロジェクトを手がけていますから。
デザイン系の演習の60~70%は実際にクライアントがいる課題になっていて、もはや美大では机上の空論でデザインをやらなくてもいいんじゃないかと思っています。世の中には具体的に解決すべきお題がたくさんあるので、「こんな椅子がほしいな」と架空の椅子を作るのではなく、実際に存在する場所や人のために椅子を作るべきなんじゃないでしょうか。
依頼してくださる方について言えば、初めて人にデザインを依頼するという方もいらっしゃって。「こんなことをデザイナーに相談してもいいんだ」と依頼者側にも発見があるなど、お互いに成長し合える関係性が築けています。
逆方面のケースとしては、「ちょっと壁画を描いてもらえませんか?」みたいな美大にありがちな発注もあります。そういう場合は「壁画を使って何をしたいんですか?」と問い直して、本当にそこに絵が必要だとわかったときに初めて動き出します。
その際にはちゃんと価格交渉もして、学生には「クリエイティブには対価が発生するんだよ」ということを伝えています。一方的に使われるだけじゃなく、お客さんが一喜一憂する様子を見てもらいながら、そこに報酬が発生するんだということを実感してほしい。そういう意味では、出来上がった作品だけでなく、学生には社会と関われたというピカイチの体験を提供できているという自信があります。
東北という土地について
中山:芸工大も、開学当初は東京の美大を真似て、東京から有名な先生を呼んで、なんとか動き出した雰囲気だったそうです。学生も、卒業したらすぐに東京に出ようという思考だったみたいです。
でも、最近は学生の意識の変化を感じています。東北が好きで、東北で勉強して、卒業したら自分の町に帰りたいという人が増えているんです。東京に進学・就職をした学生でも、「東北で学んだ」という経験を活かして、東北が関係するプロジェクトで戻ってくる人もいますね。
中山:ぼくの肌感としては、すでに震災前から始まっていました。ぼくも「東京から来た先生」なので、着任したら東京の話をいっぱいしなくちゃいけないのかなと思って来たんですが、実際に来てみると「東北でアート/デザインの仕事をすること」への学生の強い想いがあることを知りました。
実際に、卒業して東北でデザイン事務所を開いた人や起業した人もいるし、山形よりさらに田舎の地元に戻って仕事を始めた人もいる。「まずは大きな会社に入って、それから独立すれば?」みたいな価値観が当たり前ではなく、ゼロから何かを作り上げたいという卒業生が年々増えています。
中山:全般的な話ですが、何かに好奇心をもつのが難しい人が増えている気がします。メディアによって情報が満たされてしまうのか、自分で何かを探して手に入れた体験をしたことのない人が増えているんですね。
せっかく美大に入ったのに「何を作ったらいいでしょう?」と聞かれることもしばしばで。描くことは好きだけど、描きたいものがないと言われるんですね。デザインの場合は「描きたいものがなくてもいいから、クライアントに会いに行こう」と言えるけど、アートの場合はそれができないぶん深刻です。
中山:先ほど話に出た「東北画は可能か?」を主導する三瀬先生は「それでもいいじゃん。とりあえずこの風景を眺めようぜ」と、敢えて東北の風景を写生させています。「困ったら大自然に行け!」という、一周回って大昔の東京藝大みたいな。でも、これって新しい発想だと思うんです。「コンセプトが大事!」と言葉から入るのではなく、まずは美しいものを見て、それを描いて、発想しようと。最古で最新の発想法という感じがします。
そういう態度はデザインにもあって、「とにかくカッコいいものを作ってミラノサローネに出そう!」ではなく、「そういうことは都会がやってくれるから、うちらは山形の人が本当に欲しがるものを目指そう」と。アートにもデザインにも共通した態度があります。
中山:一番影響しているのは、大学の規模だと思います。芸工大には100人程度の教員がおり、そのうちの20人ほどが各プロジェクトの核となって動くのです。20人でひとつのチームのような感覚があって、「この案件はあの先生に頼もう」「あの人を中心に割り振ってもらおう」みたいな連携が大学全体で取れているんですね。
ぼくもムサビ出身なのでよくわかりますが、ムサビくらいの規模になると、大学全体でひとつのチームというより、たくさんの学科・コースの集まりという感じになります。だから「大学が元気」というより「あの学科/あのゼミが元気」という状態になりがちなんですね。でも、芸工大は大学単位で連携できているので、「企画構想学科で企画を作り、建築・環境デザイン学科でプランを練り、グラフィックデザイン学科がロゴやサインをデザインする」みたいに横断的な動きが容易にできるんです。
ほかにも、芸工大には文化財保存修復学科という珍しい学科があります。この学科には全国にも3〜4台しかない貴重な機材が揃っているのですが、そこの学生が遠く離れた現場で仏像を修復している様子を、1年間にわたって密着したドキュメンタリーを映像学科の学生が撮るなんていう、学生間の連携もありました。
中山:そうなんです。それに学科の構成も、油絵や日本画とかの技法でわかれているじゃないですか。ぼくはそれをやめようとずっと言っていて、大まかに「平面」「ビジュアルアーツ」「オルタナティブアーツ」くらいでいいじゃんと思っています。
そんな横断的な試みとして、2019年度には「T.I.P.」というプロジェクトが始まりました。本気でアーティストになりたい学生を、学科を越えて公募し、選ばれた学生には専用のアトリエを提供して、全学科の先生で指導するという育成プログラムです。
中山:おっしゃる通りで、美大には(アート系の学部・学科にも)アーティスト以外の進路を希望する学生がたくさんいます。「絵が好きだから画家になろう」ではなく、「絵を一生描ける人生を設計しよう」と言うべきで、たとえば公務員として働きながら、空いた時間に絵を描いて、心の中はアーティストだという豊かな人生も当然あり得ますよね。
結婚すること、家庭をもつこと、子育てすること、そして絵を描くことのすべてを諦めなくてもいい可能性があるんだよと、学生に伝えてあげることも、新しい美大の教員として、大切な役割だと思っています。
中山:ぼくが美大生のころは、就職の話なんかしたら「負け組」扱いでしたからね(笑)。でも、そんな具合だからアートやデザインに携わる人が「好きなことをしている身勝手な人」くらいにしか思われず、社会の中でポジションを得られなかったんです。
美大側も、学生の進路を芸術の不確実性のせいにしすぎていました。「簡単に食える業界じゃないよ」と言いながら、実質的には「最後まで責任をもたないからね」と責任を放棄しているような状態ですよね。
でも、そんなことを言っている先生たちも、そもそも大学という職場がなければ、芸術で食えていない人たちだったんです。
その点で芸工大では、プロのアーティストを先生としてアサインするようにしていて、全員が個別の「アーティストになるための方法論」をもっています。それはデザインにおいても同じで、卒業後はデザイナーになるだけでなく、デザインを活かせる仕事が世の中にはこんなにあるんだよ、と様々な業種に潜む可能性を示してあげるようにしています。
美大教育のこれから
中山:昨年度は、芸術大学なのに、授業が一時的にフルリモートになってしまいました。そのときには、学生のところに材料を送ってあげたり、アトリエからカメラを常時繋いで素材の扱い方を教えたり、知恵袋的なサイトをつくったり。埃だらけのアート系の研究室が一気にIT化して、モニターやカメラだらけになりましたね。
でも何度もお話ししたように、芸工大の核にあるのは社会と繋がる演習です。たとえば、市内の商店街とやり取りしている学生にとっては、お店のおじさんがZoomを使えるかどうかに左右されてしまいますよね。そこでみんな一生懸命動いて、時には商店に出向きながら、環境を整えるお手伝いをしていました。
中山:いままでの美大は、勉強はできないけど絵が描ける人を集めていました。でもいまの美大では、たとえ絵は描けなくても思考力のある学生の方が、社会と積極的に繋がる力をもっています。
美大にとっては、いまは断然、追い風の時代です。先行きが見えない状況だからこそ、アートやデザインを学んだことによる柔らかい思考や、いろんな情報をサンプリングできる能力をもった人材が生き生きしてくるからです。
必ずしもぼくは、アーティストやデザイナーが世の中に必要だとは思いません。そうではなく、アートやデザインを勉強したことで、頭のリミッターを外した経験のある人が社会に浸透することで、次の可能性に繋がると思っています。なので芸工大では、10年後、20年後の社会が必要とする人たちを育てていますと胸を張って言えます。
3.11のときは、あの大破壊を見て、アートやデザインなんて世の中の役に立たないんじゃないかと思った瞬間もありました。でも、どんなときでも人や社会は心から修復していくもの。なので、長い目で見るとやっぱり芸術は人の役に立つ。そして、デザインは未来の社会の基盤となる。そういう意味で、いまは美大にとって大きなチャンスだと感じています。
後編では、中山氏が教鞭をとるグラフィックデザイン学科の学生3名へのインタビューをお届けする。
中山 ダイスケ
東北芸術工科大学学長。アーティスト、アートディレクター。1968年香川県生まれ。武蔵野美術大学中退後、現代美術作家として活躍。97年からニューヨークを拠点に活動。デザイン分野では舞台美術、ファッションショー、店舗や空間、商品や地域のプロジェクトデザイン、コンセプト提案などを手がける。2007年東北芸術工科大学グラフィックデザイン学科教授、18年から現職。