【連載】grafが手がける、暮らしを豊かにするデザインvol.1 「つくる」と「伝える」

Oct 21,2017interview

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Oct21,2017

interview

【連載】grafが手がける、暮らしを豊かにするデザイン vol.1 「つくる」と「伝える」

文:
TD編集部

大阪を拠点に、家具の製造・販売やグラフィック、プロダクト、スペースデザイン、コミュニティデザインや地域ブランディング、カフェ運営、食や音楽イベント運営など、暮らしにまつわるあらゆる事柄に取り組むクリエイティブユニット「graf」。1998年の立ち上げ当初から様々な業種のメンバーが集まり「暮らしを豊かにする」デザインを実践されてきました。そんなgraf代表の服部滋樹氏へのインタビューを、3回連載でお届けします。
第1回目の今回は、grafを立ち上げたきっかけについて。今でこそ当たり前になった「協働」でのものづくりの先駆け。なぜ異業種の6人で始めたのか。そこには意外にも「バブルへのアンチテーゼ」があったと言います。

(前回の記事)【Sneak preview】grafが手がける、暮らしを豊かにするデザイン

華やかなバブル時代への反発
「僕らにフィットするもの」をつくるために始めたgraf

服部さん、本日はありがとうございます! 早速ですが、ご著書『ようこそ ようこそ はじまりのデザイン』には、graf発足時のエピソードが書かれています。「バブル崩壊後の鬱屈した雰囲気の中で、自分たちのものづくりをピュアに体現できる場所、仕組みとして1998年に立ち上がった」とありますが、当時のことを聞かせていただいていいですか。

服部:最初から今のような衣食住のデザインとして考えていたのではなく、自分たちの生活自体を新しく変えていきたいと考えていました。
バブルの時って、ボディコンのお姉さんが踊っていたりする華やかなイメージがあるけど、僕らは全くそういった世界にいなかったので「なんやそれ?」という気持ちでした。今思えばそういった社会へのカウンターカルチャーとして反発した結果生まれたのがgrafだったのだと思います。そんなものや文化に僕らはフィットできない、僕らの生活にフィットするものがなかったんです。

ファッションにしても、遊び場にしても、道具にしても、素直に受け入れられるものが正直無いなと、感じていました。そして、こんなにも自分にフィットするものがないなら、自分たちでつくろう。というステップに自然となっていきました。

インタビューに答えてくれた、代表の服部滋樹氏。社名である「デコラティブモードナンバースリー」はgrafの前身となるチームの名前。デコラティブモードとは「装飾の流行」という意味で、ここからも時代へのアンチテーゼがうかがえる。
バブル崩壊の時、どんなことを思いましたか?

バブルが崩壊したのを見て、社会の仕組みも崩壊した! と感じました。
今までの社会構造、ピラミッド型のメーカーがトップにいて、次に生産者がいて、最後にユーザーがいるという構造が、ばらされたなと。

これはラッキーだと感じましたね、「新しいことをできる」と。これが僕らgrafの希望でした。
タテ型の構造から、ヨコ型の構造へ。そうなれば水平方向のつながりで生きていくことができるのではないかと思えたんです。そしてこれこそ今後の社会に必要なものだと感じました。

今思うと、本当に僕らは運が良かったんです。バブルがなかったら、これだけのエネルギーが湧かなかったと思いますし、社会への不満を原動力に変えようと思わなかった気がします。

ご著書にも「景気が停滞し、就職も難しい……そんな状況を打開するには『集団でものをつくる』ことが有効だと考えるに至った」と書かれていますね。同世代の異業種集団とありますが、どんな人たちが集まった集団だったんですか?

現在は20人の集団ですが、設立当初は僕含めて6人でした。
もともと、僕が19歳のときから4年間くらいアルバイトしていたアンティーク家具の修理工房で出会ったメンバーです。
偶然にも全員が異業種で、プロダクトデザイナー、アーティスト、大工、家具職人、シェフ、そしてデザインの監修などをやっていた僕。このメンバーでgrafはスタートしました。

今回訪れた、大阪中之島にあるgraf studio。1階はショップとカフェ、2階に事務所がある。取材日はお店が定休日で美味しそうなオリジナルフードは一切食べられず来訪を誓う。(後日編集長はかき氷を食べに行ったそうです。いいなぁ)

このような異業種が集っていたからこそ、その後、衣食住のデザインに繋がっていったと感じますね。当時は同業者の集団はよくいましたが、異なった分野どうしのチームっていうのは珍しかったみたいです。

メンバーは全員作り手だったので「こんな形のものがあったら良いね」と話せば、メンバーの大工が「それ、できると思う」と言って、次の週にはプロトタイプを作ってくれたりして、活発に製作をしていました。プロトタイプに対して、みんなで修正を加えたりして作品をたくさん作っていきました。当時は家具を作っていましたね。

ただ、それを売るとか商品にするまでは考えていなくて。とりあえず、このチームで何ができるかを形にしていこうと、二足のわらじ状態でやっていました。昼間はサラリーマンや大工、レストランで働いて、夜になったら集まって。みんなで作品について考えたり、今後のものづくりやデザイン、社会の構造などについて話し合ったりしていました。

初めての作品展覧会。訪れた人の数は……?

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