【連載】雑誌『CAR STYLING』の軌跡と奇跡 vol.2

Dec 14,2016interview

#Car_Design

Dec14,2016

interview

【連載】雑誌『CAR STYLING』の 軌跡と奇跡 vol.2

文:
TD編集部

日本のカーデザインを世界に。カーデザインの魅力を日本の読者に。
そんな想いで1973年、一人の熱意ある編集者が生み出した雑誌『CAR STYLING』。前回は初代編集長、藤本彰氏が今のカーデザインをどう見ているのかについてお話を伺った。
連載2回目となる今回は、『CAR STYLING』の創刊号発刊時にまつわるエピソードを伺っていきたい。

Vol.2
もしもアバルト1000のエンジンが壊れなければ
彼がトリノに行くこともなく、
『CAR STYLING』が生まれることはなかったかも。 

実は、創刊のきっかけとなったのは彼が『AUTO SPORT』という雑誌の編集長を引き受けて2年目のある日のこと。富士スピードウェイで読者のアバルト1000を某有名レーシングドライバーに試乗してもらっていたとき、突然エンジンが故障した。オーナーからは弁償を迫られるが、日本での修復は難しく、結局イタリアのオゼラ・アバルトに交渉、幸いにも1基譲り受けることになった。そのエンジンを買い付けるためにトリノへ行ったことがすべての始まりだったのだという。
なぜCAR STYLING誌を創刊できたのか、廃刊の危機をいかにして乗り越えたのか。苦労話や裏話を交え、藤本氏にたっぷりと語っていただいた。

CAR STYLING
CAR STYLING 

カーデザインの聖地トリノへ

前回は、「藤本さんから見たこれからのカーデザイン」についてお話を聞きました。
今回は、「藤本さんとCAR STYLING誌」について伺います。CAR STYLING誌の編集長になる前はどんな仕事をしていましたか?

藤本1969年から1972年前半までAUTOSPORT誌の編集長でした。その前はモーターファン美術部に所属していました。テクニカル・イラストレーションに興味があり、これをマスターして独立しようと思っていました。当時、モーターファン労働組合の委員長もやっていて、経営陣の交替を会社に迫ったりしていたので、AUTO SPORT編集長の久保正明さんを役員として送り込んだ時、後任を引き受けるという約束を迫られ、3代目のAUTO SPORT編集長を拝命しました。三栄書房に入社したのは1959年です。
とは言えイタリア語は「ボンジョルノ」と「グラツィエ」しかできないので、当時すでにカロッツェリア・ミケロッティ社のチーフデザイナーをしていた内田盾男さんを頼ってのトリノ行きでした。たまたま開催されていたトリノ・モーターショーで宮川秀之さんと会うことができ、新進気鋭のカースタイリスト、ジョルジェット・ジュジャーロ氏を紹介してもらいました。彼のデザインした車の素晴らしいこと、ほかのカロッツェリア作品も未来的で夢のような世界でした。
憧れのトリノ自動車博物館も見学しました。その時の強烈な印象は今でも忘れません。
馬車の姿の近いクラシックカーや色とりどりの小さなスポーツカーがずらりと並んでいたのです。これぞ自動車文化だ! と涙が出るほど感動したものです。
一方で「安くてアクセサリーは何でもついているがデザインはプアーで特徴がない」というイタリアの人たちの日本車評を内田さんから聞かされて、これも強烈なショックでした。どうすれば日本車のデザインがよくなるのか? イタリアの‟style auto “のような優れた情報誌が日本にも必要ではないか? 帰国の飛行機の中で企画を練り上げました。
‟CAR STYLING”という誌名もその時に考えたのです。

国内外の多くのカーデザイナーから協力を受け、‟CAR STYLING”ついに創刊

CAR STYLING誌の創刊にあたってどんなことに苦心されましたか?

藤本企画書は採用されたものの、私自身はカーデザイン界の実情をほとんど知らなかったので、会社を通じて国内の自動車メーカー各社に声をかけ、ロサンジェルスにあるArt Center College of Designへの企業派遣留学経験を持つカーデザイナーに集まってもらい、まずは「プレ創刊号」をつくりました。そのお膳立てをしてくれたのが同校を自費で卒業したカーデザイナー(当時)、金古真彦さんです。彼はのちにCAR STYLINGの北米支局と販売元を引き受けてくれました。
ブレイン会議と称したその集まりの中で、CAR STYLINGでは、主にデトロイトの情報を取り入れ、スケッチやレンダリング のテクニックや、海外で活躍するデザイナーの作品を紹介することになりました。

CAR STYLINGで実際に掲載されたイラスト
CAR STYLINGで実際に掲載されたイラスト

藤本こうして1972年8月にモーターファン臨時増刊CAR STYLINGを発刊。この号はいわばプロトタイプで、創刊号の発刊は1972年12月でした。もちろんブレインになってくれたデザイナーの皆さんには忌憚のない評価を仰ぎました。編集内容は好評でしたが、判型をスクエアにして、表紙のデザインをもっと個性的にできないかという提案があり、その後の判型をAB判より40mm幅広の「AB判ワイド」としました。表紙の題字はタテ3/4の位置にしました。これは当時いすゞのデザイナーだった根岸さんのアイデアです。読者には好評でしたが、実は書店からはクレームもあったんです。
横幅が長すぎて陳列と運搬に不便とか、題字が見えにくいので平置きするしかない、とか……。しかしいったん決めたスタイルを変えたくなかったので、そのまま続けました。
「海外取材では、金古真彦さんに大変お世話になりました。彼の案内でデトロイトに行き、GMテクニカルセンターでチャールズ・ジョーダン部長にプレ創刊号を見せると、「続けるならずっと応援しますよ」と約束してくれたのです。このときはどうなるかわからない突撃訪問でしたが、1号に掲載したPontiac Gran-Dam開発の時の素晴らしいスケッチと写真は、8✕10のプリントにジョーダンさんご自身がすべてコメントをつけて送ってくれたものです。これらは、日本のカーデザイナーの間で話題になりました。

なぜ、プレ創刊号の頃から多くの読者に親しまれたのでしょうか?

藤本創刊発売は1972年12月なのですが、当時を振り返ると高度成長期の中で国内の自動車需要が高まり、自動車ビジネスがようやく成り立ってきた、そんな時代でしたが、デザイン開発には各社とも苦労していたようです。まさしくカーデザイン情報が不足していたのです。デトロイトのビッグスリーとは比較にならないほど日本の自動車メーカーの開発体勢は遅れていた、ということが後で判りました。
そうした時代背景を受け、「優れたカーデザイナーを育てたい」という空気が自動車業界全体にあったのでしょうね。また、カーデザイナーにかぎらず若い世代の「イラストレーター」という職業に対する憧れの強かった時代でもありましたから、CAR STYLING誌が紹介するレンダリング・テクニックやスケッチ描法、そして作品そのものに対する純粋な興味が読者の中にあったのだと思います。
第1号ではArt Center College of Designも取材したのですが、当時のドン・クーブリー学長が出来上がった本誌を見て「CAR STYLING誌は学生たちのバイブルだ」と高く評価してくれました。

ドン・クーブリー学長からのコメント
石油危機で廃刊寸前に。続けるために出した提案は「私をクビにしてください」?!

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