芸術資料館「京都芸大〈はじめて〉物語」をあるく日本最古で最新の芸術大学 vol.2

NEW Jul 12,2024interview

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NEW Jul12,2024

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芸術資料館「京都芸大〈はじめて〉物語」をあるく 日本最古で最新の芸術大学 vol.2

文:
TD編集部 藤生 新

日本最古の芸術大学・京都市立芸術大学が2023年10月にキャンパス移転を果たした。「日本最古で最新の芸術大学」シリーズの第二弾として、同大の芸術資料館で学芸員を務める松尾芳樹氏、2025年2月まで開催中の移転記念特別展「京都芸大〈はじめて〉物語」を企画した田島達也氏(総合芸術学科教授)へのインタビューをお届けする。

TOP写真:編集部撮影
左から田島達也氏(総合芸術学科教授)、松尾芳樹氏(芸術資料館学芸員)

前回の記事:京都市立芸術大学・赤松玉女学長インタビュー 日本最古で最新の芸術大学 vol.1

日本最古の芸術大学・京都市立芸術大学(以下、京都芸大)には「芸術資料館」がある。140年以上の歴史をもつ同大出身者の卒業制作、旧教員の作品、美術工芸に関する参考資料など、4,000件以上のコレクションが保存されている。

2023年10月のキャンパス移転に伴い、芸術資料館も新キャンパスへ移設された。そして2024年4月から1年弱続く移転記念特別展「京都芸大〈はじめて〉物語」が開催されている。そこで芸術資料館の活動内容と移転記念特別展の見どころについて、学芸員の松尾芳樹氏と総合芸術学科教授の田島達也氏へインタビューしてきた。

そもそも芸術資料館とは?

まずは、芸術資料館がどのような施設なのかを教えてください。

松尾芳樹氏(以下、敬称略):芸術資料館は、1991年に京都市立芸術大学に設置された大学博物館です。主な活動はコレクションの収集、保存、利用など。具体的には、館内での展示活動と、学内利用者に対する特別閲覧の対応、学外の美術館・博物館への貸し出しといった業務に取り組んでいます。

本学のミュージアム活動が始まったのは、1962年のこと。東山区今熊野に校舎があった時代に附属図書館の所管施設として陳列館が開館しました。それまで、参考品や卒業作品などはすべて附属図書館が管理していたんですが、陳列館ができたことで博物館的な活動ができるようになったんです。そして1991年に附属図書館の業務を継承するかたちで芸術資料館が開館しました。

コレクションの構成についても教えてください。

松尾:京都府画学校時代に絵の練習のために用いられていた手本類があります。具体的には、粉本(ふんぽん)模本・下絵などですね。私たちはこれを「参考品」と呼んでいて、こうした参考品と卒業作品、旧教員の作品などがコレクションの核を成しています。

当館の収集活動は、1887年(明治20年)に日本画家の田能村直入氏から絵画と工芸品が寄贈されたことによって始まりました。参考品の第1号は「京都芸大〈はじめて〉物語」展(後述)の第2期で展示されています。

そして、本格的な購入活動が始まったのは1894年(明治27年)のことでした。当時、美術工芸学校(画学校の後身)は実業学校とみなされていたので、産業への奉仕を目的として国からの補助金がおりたんです。その資金を元手にして古美術や卒業作品の購入が始まりました。

さらに1962年に陳列館が開館したことによって、学生や教員の作品が寄贈されるようになり、コレクションの数は現在の4,000件以上にまで増えました。卒業生には著名な美術家も多くいるため、当館のコレクションがまるで京都の近代美術の生き字引のような機能を果たしているとも思います。

幸野楳嶺《北宗絵手本》(提供:京都市立芸術大学)
陳列館と芸術資料館の違いは何でしょうか?

松尾:陳列館はあくまでも「博物館的」な施設であって、博物館ではありませんでした。それに対して芸術資料館は博物館法の要件を満たしているので、博物館実習の受入先として活用できます。

貴学にはギャラリー@KCUA(通称「アクア」)もありますが、アクアとの棲み分けについてはいかがでしょうか?

松尾:収蔵品の有無が最大の違いです。アクアは在校生、教員および卒業生の研究成果に基づく展覧会、ワークショップ、講演・講座等を市民向けに開催することが主な活動内容です。芸術資料館とは「展覧会活動」という点で重なる部分もありますが、展覧会企画を核に据えているアクアに対して、当館はコレクションを核に据えているので、そこが大きな違いになりますね。

ギャラリー@KCUAにおける久門剛史「Dear Future Person, 」展示風景(撮影:来田猛、提供:京都市立芸術大学)
うつしのまなざし」展示風景(撮影:来田猛、提供:京都市立芸術大学)
芸術資料館とアクアの接点といえば、2022年に芸術資料館収蔵品活用展の
うつしのまなざし」が開催されましたね。

松尾:はい、「うつしのまなざし」展では、当館からアクアへコレクションを貸し出すかたちで連携しました。当館にとっては資料の活用機会という意味で、アクアにとっては大学の歴史が掘り下げられるという意味でそれぞれ有意義な取り組みだったと思います。同じ学内にあるミュージアムとギャラリーの共同活用という意味で、成功例だといえますね。

移転記念特別展が目指すものとは?

現在開催中の移転記念特別展「京都芸大〈はじめて〉物語」(以下、本展)はどのような展覧会なのでしょうか?

田島達也氏(以下、敬称略):キャンパス移転を記念する特別展なので、たくさんの方々に見にきていただける展覧会を目指して企画しました。内容も盛りだくさんで会期も長く、2024年4月に始まる第1期から、2025年2月に終了する第4期まで、通年で楽しめる展覧会として構成されています。

なぜ「〈はじめて〉物語」というタイトルなのでしょうか?

田島:鍵になるのは、本学のセールスポイントである「日本最古の芸術系大学」。歴史が長いということは、これまで様々な「新しい試み」が行われてきたことになります。そこで本学が体験してきた折々の「はじめて」を見てもらおうと思い、このタイトルにしました。

「京都芸大〈はじめて〉物語」チラシ

全体の構成としては、第1期には当館コレクションを代表する有名作品が並びました。時代的には、明治末から大正初期の卒業作品が多いですね。
第2期では時系列的にやや戻り、京都府画学校ができた時代の様子を紹介する内容となります。
第3期では、本学初の日本画卒業生、西洋画卒業生、女子卒業生、留学生などの作品を紹介し、さらには西川桃嶺(とうれい)という知られざる画家の初公開作品を展示します。
そして最後の第4期では、1960年代以降の大学改革に端を発する特徴的なカリキュラムなど、現代にも通じる多様化した教育の有り様を紹介する予定です。

画学校の開校によって活気づいた京都画壇

第1期ではコレクションを代表する作品が展示されたとのことですが、その具体的な内容を教えてください。

田島:本学は時代によって学校の形態を変えてきたのが特徴で、そもそも出発点になった京都府画学校は(大学が位置づけられる高等教育ではなく)中等教育のポジションに位置していました。しかし次第に「画家として活躍していく上では中等教育だけでは足りない」という声が上がり、1909年(明治42年)に京都市立絵画専門学校という、日本画に特化した専門学校が開校しました。

ここには社会人入学のようなコースがあったので、オープンを待ち構えていたかのように、土田麦僊(ばくせん)小野竹喬(ちっきょう)など、すでに画家として実績のある人々が入学してきました。その初期学生が大活躍したおかげで、その後も続々と学生が集まってきて、京都画壇が若い画家たちによってにわかに勢いづくことになりました。

「京都芸大〈はじめて〉物語」第1期展示風景(提供:京都市立芸術大学)

第1期ではこの盛り上がりを再現できるよう、出来るだけたくさんの作品を展示して、資料でも当時の学生生活の様子を写真で紹介したりしています。具体的には土田麦僊《髪》(1911年)、小野竹喬《南国》(1911年)、岡本神草《口紅》(1918年)など、近代日本画史ではしばしば紹介される名作を多く紹介しました。

土田麦僊《髪》(1911年)(提供:京都市立芸術大学)
当時の学生生活はどのようなものだったのでしょうか?

田島:中庭に花畑があって、そこで学生たちが散策している写真なんかが残されています。1期生の集合写真を見ると、日本の絵画史上の有名人ばかりという錚々たるメンバーになっていますが、雰囲気的にはいかにも学生時代の青春という感じで、現代の人が見ても共感できるものになっています。

「吉田校舎中庭写生」(提供:京都市立芸術大学)
「校外写生(吉田神社)」(提供:京都市立芸術大学)
「京都御苑からの出発」というサブタイトルが付けられた第2期の内容は、どのようなものでしょうか?

田島:本学の出発点は、京都御苑の中にあったお屋敷の准后御里御殿(じゅごうおさとごてん)でした。これは宮中の方がお産をするための施設ですが、明治になって天皇家が東京へ移られたために用途を失い、一時的には師範学校などとして使われていました。

そんな来歴のある准后御里御殿を仮校舎として、1880年(明治13年)に開校したのが京都府画学校です。明治15年に河原町織殿に移転するまでの間、ここに仮校舎が置かれていました。この時代の学校の歩みを体感できるよう、田能村直入らによる《画学校起校上書・開学建議書・建築案図》(1878年)や幸野楳嶺《龍馬負河図図》(1880年)などが展示されています。

「忘れられた画家」と現代の学生のコラボレーション

第3期では「忘れられた画家」こと、西川桃嶺(とうれい)が紹介されるそうですが、どのような人物なのでしょうか?

田島:実は本展で最初に構想されたのがこの第3期でした。西川桃嶺は、1880年(明治13年)12月に、一期生としては唯一の卒業生になった人物です。作品が少なく、現代では忘れられた画家となっていますが、最近になって興味深い大作が発見されました。

《玄武洞図屏風》(1917年)という作品で、兵庫県にある天然記念物の洞窟・玄武洞が描かれたものです。発見当時は屏風から剥がされてバラバラだったため、作者名も何が描かれているかすらもわかりませんでしたが、調べていくとモチーフが玄武洞であることがわかり、続けて西川桃嶺という名前が浮かび上がりました。
そこでこの人物について調べてみると、実は西川が本学唯一の一期卒業生であり、大学にとっても重要な人物であることが判明。そこでこの屏風を修復することが決まりました。

西川桃嶺《玄武洞図屏風》(1917年)(提供:京都市立芸術大学)

そこで活躍したのが、本学の保存修復専攻の学生たちです。作品を裏打ちして、剥落を止めて、屏風に仕立てる直前のところまで学生が絵を修復しました。そして現在は協賛金を募り、展覧会でお披露目するために再度屏風に仕立てているところです。

西川桃嶺という一期生の作品が、現代の学生の手で修復されて公開される──こうしたストーリーも含めて、《玄武洞図屏風》が第3期の目玉となっています。

ほかにはどのような「はじめて」が公開されるのでしょうか?

田島:実は本学には(著名な女流日本画家である)上村松園が通っていた時期がありました。しかし上村は卒業しておらず、それでは本学初の女性の卒業生は誰だろうかと調べてみたところ、耕山細香(こうやまさいこう)という名前が浮かび上がりました。

現在でも彼女の卒業制作《野叢寒鶉》(1897年)が残されています。ご遺族にもコンタクトを取ることができたので、調べてみたところ、耕山は卒業後は作家活動はしていないようでした。そのため、彼女の作例としてはこの卒業制作が大変貴重な一枚となっています。

また初めての留学生として、鄭褧裳(てい・けんしょう)という人物がいました。中国風の女性像《鸚鵡》(1914)が今でも残されています。当時人気のあった美人画の手法をとり入れながら、中国風の繊細な女性像が描かれています。日中の文化的な融合が見られる貴重な作例ですね。

大学改革から始まった現代版・教育カリキュラム

第4期では1960年代以降の状況が紹介されるとのことでした。なぜ、この時代に着目されるのでしょうか?

田島:第3期までは明治~大正期の話題が中心でしたが、第4期はより現代に近づき、戦後の状況を紹介します。現在本学には美術学部と音楽学部がありますが、元々は1950年に開学した京都市立美術大学と、1952年に開学した京都市立音楽短期大学という別々の大学でした。

両者が統合されたのは1969年のこと。京都市立芸術大学の美術学部・音楽学部として再編されました。当時は学生運動が盛んな時代でしたので、本学でも改革の機運が高まり、特に美術学部の学生の意見が反映されたかたちで改革案が実行されました。第4期では、こうした経緯で本学の教育カリキュラムがガラリと変わったことを紹介していきます。

それ以前の教育は研究室ごとの縦割り式だったのですが、改革以降は1回生が学科を越えて協働して取り組む共通ガイダンスの実施など、専攻の枠を越えた「横のつながり」が重視されるようになりました。

総合基礎実技の授業風景(提供:京都市立芸術大学)

また学びのあり方も自由度が増し、教員から一方的に指示されるだけでなく、学生自らがやりたいことを提案する「研究テーマ」という授業が始まりました。こうした思想はいまなお本学に残っていて、総合基礎実技という授業では専攻の枠を越えた学びが行われていますし、テーマ演習という授業では学生が提案する内容の学びが行われています。このように、現在の本学の特徴が形成されたのがこの時期だったんです。

具体的には、どのようなものが展示されるのでしょうか?

田島:大学改革のマニフェストなど、当時の熱気を伝える資料が展示される予定です。ほかにも、戦後さまざまな挑戦に取り組んだ作家の作品が公開される予定で、たとえば、須田国太郎《馬墨画》(1950年)、本学が大学組織になったことを記念として描かれた《京都市立美術大学門標》(1950年)、また本学では戦後積極的に海外調査が行われたのですが、その際に収集されたニューギニア民族資料のお面など、戦後の多様な教育の広がりを反映するように、幅広い方向性のコレクションが一堂に会する予定です。

上村松篁の新発見作品

田島:最後に、さり気なくも重要な関連企画についてお話しさせてください。芸術資料館と同じ建物の6階にアートスペース k.kaneshiroという展示施設があります。大学移転にご協力いただいた金城一守さんの美術コレクションを紹介するスペースで、展示ケースがひとつあるだけですが、ここで2024年4月から6月まで「美工・絵専時代の上村松篁 若き日の異色作をめぐって」という展覧会が開催されました。

上村松篁(しょうこう)という画家は、先ほども名前の出た上村松園の息子です。松篁は京都市立絵画専門学校の卒業生で、その後教員としても本学で教壇に立っていた人物。その松篁の作品がこのたび発見されたんです。

「美工・絵専時代の上村松篁 若き日の異色作をめぐって」展チラシ

松篁は花鳥画を得意とする日本画家ですが、新たに見つかったのは、彼が学生時代に描いた《仮睡》(1921年)という女性像。松篁を知っている人からすると「本当に松篁の作品?」と疑ってしまうような意外な作風なんです。

金城コレクションの調査中に学生と発見して盛り上がり、これは「〈はじめて〉物語」展と同じタイミングに公開するのが良いだろうとなりました。そこで関連企画として、上階のアートスペースでは松篁の新発見作品や卒業制作などを展示しました。この展覧会でも、学生が解説テキストの執筆や調査協力などで大いに尽力してくれています。

歴史上の出身学生と現代の学生のコラボレーションのあり方が素敵です。

田島:ありがとうございます。「〈はじめて〉物語」展の展示ケースには、一般的な美術展ではあり得ないほどの密度で作品・資料が展示されています。初見の方はびっくりされるかもしれませんが、そこは私たちの想いが溢れた部分として、好意的に受け取っていただけたら嬉しいです。

本学の歴史はこれまで述べてきた通りですが、それを作品や資料の実物を通じて体感していただきたいと思っています。2025年2月まで開催されておりますので、ぜひ実際に会場へお運びください。


「〈はじめて〉物語」展の内容紹介を通じて、芸術資料館の成り立ちから京都芸大の教育の特色までをうかがい知ることができた。特に印象的だったのは、歴史上の作家と現代の学生とのコラボレーション。100年以上の時の隔たりを超えた「コミュニケーション」が成り立つことは、実際のモノを継承している芸術資料館だからこその取り組みに思われた。
次回は現役学生や卒業生へのインタビューを通じて、内部からのリアルな声をお届けしたい。

info
京都市立芸術大学芸術資料館移転記念特別展
京都芸大〈はじめて〉物語
会場:芸術資料館(京都市下京区下之町57-1)

第1期 カイセン始動ス! 京都市立絵画専門学校に集いし若き才能
会期:2024年4月6日(土)~6月2日(日)※終了

第2期 「日本最初京都画学校」 京都御苑からの出発
会期:2024年6月15日(土)~8月12日(日・休)

第3期 道を拓きしものたち 知られざる先駆者
会期:2024年9月21日(土)~11月24日(日)

第4期 Road to GEIDAI 美術学部改革と新しい教育をめぐって
会期:2024年12月7日(土)~2025年2月11日(火・祝)

 

松尾芳樹(まつお・よしき)

1959年、長崎県上五島生まれ。京都市立芸術大学芸術資料館学芸員(学芸担当課長)。専門は日本美術史(絵画)、特に粉本・図像研究。1984年、京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。2015年、博士(美術/京都市立芸術大学大学院)。1987年に京都市立芸術大学学芸員に着任し、1991年以後は同大学芸術資料館学芸員を務めている。

田島達也(たじま・たつや)

1964年、北海道札幌市生まれ。京都市立芸術大学大学美術学部教授、芸術資料館兼担教員。専門は日本美術史(近世、近代絵画)、特に障壁画、美人画、円山四条派、近代京都画壇など。1990年、京都大学大学院美術研究科博士後期課程中退。1991〜1997年、京都文化博物館学芸員。1997〜2003年、北海道大学文学研究科准教授。2003年、京都市立芸術大学美術学部講師に着任。

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