京都精華大学、京都芸術大学、京都美術工芸大学、嵯峨美術大学……ざっと思いつくところを挙げただけでも、京都には実にたくさんの美大がある。文部科学省の「学校基本調査」によると、人口あたりの学生数は京都市が全国1位の10%超。2位の東京都区部(6%弱)に大きく差をつけている。
そんな大学激戦区の京都には日本最古の芸術大学も存在している。京都市立芸術大学(以下、京都芸大)だ。その歩みはなんと140年以上。設立年は1880年(明治13年)というから驚きである(ちなみに、東京藝術大学の前身にあたる東京美術学校は1887年に設立された)。
そんな京都芸大が、このたび2023年10月、京都駅にほど近い崇仁(すうじん)地域へ全面移転を果たした。国内最古の芸術系大学による、国内最新のキャンパス移転である。
なぜ、いま京都芸大は移転したのか? 新しいキャンパスの見どころは? 京都芸大の取り組みに見る「美大教育のいま」とは? 崇仁地域の新キャンパスを訪れ、赤松玉女学長にインタビューしてきた。
御所で産声をあげた日本初の美大
赤松玉女氏(以下敬称略):まずは本学の成り立ちについてお話しさせてください。本学の起源である京都府画学校は1880年、明治13年に設立されました。江戸時代までは京都に都が置かれていましたが、明治期に東京へ都が移り、天皇、貴族、その他あらゆる美術・工芸のスポンサーが京都を離れました。3分の1の人口が減ったと言われるほどで、京都の産業の衰退は甚だしいものでした。
そこで画家たちが話し合い、京都の文化芸術の流れを未来に繋げるべく、教育を整備することが決まりました。そこでつくられたのが京都府画学校です。
何よりも特徴的なのは、画学校が設置された場所で、京都御苑(京都御所)の中に最初のキャンパスが置かれたんです。御所にお住まいだった天皇が東京に行かれたあと、主のいなくなった御所に残された准后御里御殿(じゅごうおさとごてん)というお屋敷に画学校が置かれることになりました。
象徴的なのはその用途です。なんとこの建物は、宮中の方がお産をするために用いられる場所でした。文字通り「人が生まれる場所」から「芸術が生まれる場所」が立ち上がったんです。そんな大切なお屋敷を校舎として使わせていただいたことからも、当時の人々の画学校への強い想いが伺い知れると思いませんか。
赤松:御所で産声をあげた本学は、その後10回ほどの移転を繰り返しながら、2023年10月に京都駅東部にある崇仁地域へ移転してきました。
新しいキャンパスは京都駅にほど近い街中にありますが、ここに移転する前は西京区の沓掛(くつかけ)という地域にキャンパスがありました。沓掛には1980年から2023年までの43年間にわたりキャンパスが置かれていて、現在のキャンパスとは対照的に、郊外の竹林に囲まれて静謐とした環境が広がっていました。
本学にとって、沓掛時代がターニングポイントになりました。1980年に沓掛に移転した際、それまでは別々の場所にあった美術学部(旧京都市立美術大学)と音楽学部(旧京都市立音楽短期大学)が初めて同じキャンパスで活動することとなりました。
それによって美術と音楽の垣根を超えた交流が生まれ、今も続くミュージカルサークルができるなど、後ほどお話しする本学の特色──横断性──が顕著になりました。さらに大学院の修士課程と博士(後期)課程が設置され、日本伝統音楽研究センターや芸術資源研究センターといった研究機関も新設されています。
赤松:沓掛にキャンパスが建てられた1980年は、まだ社会全体でバリアフリーへの意識が低い時代でした。40年以上が経過する中で、施設・設備の老朽化や狭隘化、建物の耐震性などの課題も次々と表面化しており、それらの問題に対処するため、移転自体は10年前には決定されていました。
移転先の崇仁地域では、建設予定地に市営住宅が建っていましたが、工事に先立ち、お住まいだった皆様に新しい住宅に移っていただくこととなりました。移転事業が進行する中でコロナ禍にも見舞われましたが、元々暮らしておられた方々の住居を取り壊して引越しまでしていただいたのに、事業の完成を延期させるわけにはいきません。
2023年7月末までは沓掛で通常授業を行い、8・9月の2ヶ月間で楽器、機材、椅子や机などの備品や什器など、すべての引越しを行うこととなりました。町を丸ごと引越すような大変な作業でしたが、1日の遅れもなく作業が進み、10月1日には予定どおりオープニングセレモニーを開催し、翌2日からは新キャンパスで授業を始めることができました。
少人数教育と横断性
赤松:まず、本学の特徴は少人数教育であることです。美術学部135名、音楽学部65名で、1学年あたりの学生数は合計200名です。4学年を合わせて800名、そこに大学院生を加えても1,000名程度です(編集部注:同じ京都にキャンパスを構える私立大学・京都芸術大学の学生数は合計21,000名以上)。
そんな本学のカリキュラムは、少人数であることを前提としたものになっています。最近では美大の世界でも「学際」や「複合」といった言葉が使われるようになりましたが、私たちはそうした言葉が使われる前から横の繋がりを大切にしてきました。
本学の美術学部は美術科、デザイン科、工芸科、総合芸術学科に分かれていますが、最初の半年間は全学科の学生が同じ教室で混ざり合って「総合基礎実技」という授業を受けます。
学生が専門に閉じ籠もるのではなく、ジャンルを横断する学びを経験することで、専攻を超えた学生同士の繋がりが生まれます。担当する教員の専門領域もオールジャンルで、様々な専攻の教員が一緒に考えた課題が出されます。
芸術の学びは4年間で完結するものではないので、在学中にも卒業後にも、各々が属するジャンルだけでは解決し得ない問題に直面することがあり得ます。そんなとき、入学時に培われたネットワークが活きてくることがあるんです。
赤松:もちろん段々とそれぞれ専門的な知識や技術を学んでいくのですが、それとは別に3年次から受講できる「テーマ演習」という授業があります。これは学生と教員が専攻を超えて、一定のテーマに沿った実践的な研究を行うものです。その特徴として、教員だけでなく学生も授業のテーマを提案できることがあります。
ある研究テーマに対し、専攻の垣根を超えて学生と教員が実践型の授業(演習)に取り組みます。大きな大学でこういうことをやると収拾がつかなくなってしまうかもしれませんが、小さな大学でお互いに見知った間柄だからこそ、こうした横断的な取り組みを行うことができると感じています。
学生同士の横断性はもちろん、時にはどちらが学生でどちらが教員なのかわからないほど、みんながごちゃ混ぜになって手を動かすこともあります。内容によっては学生の方が得意な分野もあるので、豊かな横の繋がりの中で新しいものづくりに挑戦できる雰囲気があるんです。
街との信頼関係
赤松:1960年代の終わりに、美術学部で硬直化や閉鎖性を打破するための大学改革案がまとめられ、1971年に「総合基礎実技」の前身である「共通ガイダンス」という授業が始まりました。
学生運動の流れから「狭い専攻の中だけで芸術が学べるか」と大学制度を問いただす動きが生まれ、その問いに当時の教員が応えるかたちで始まったのが「共通ガイダンス」だと聞いています。学科を超えた横断的な学びは50年以上続く本学の伝統といっても過言ではありません。
このカリキュラムで重要なことは、担当教員の組み合わせが毎年変わることです。したがって、何年経っても授業がマンネリ化せずに新鮮なままで、良い意味で内容が固定化されることがありません。先ほど名前が挙がった研究機関、芸術資源研究センターには「共通ガイダンス」が始められた当時の宣言文も残っていますよ。
赤松:それについては、今回の移転を通じて再認識したことがありました。京都には地場産業を支える企業が多いので、移転に際してそういった企業の皆様にご挨拶して回ったところ、「実はうちの先代がおたくの出身で」「うちの叔父も」「嫁も」と、本学にゆかりのある方々が街に驚くほどたくさんいらっしゃったんですね。
そうした方々からのご支援のみならず、音楽ホールのこけら落としのコンサートには定員の10倍ものお申し込みがあり、移転後初の作品展には1万8千人もの来場がありました。
先ほどは小さな大学だと言いましたが、140年も歴史があるぶん、京都の街とのゆかりが深いんです。そうした深い繋がりのもとに産学連携のご提案をいただいたり、私たちも街の方々に積極的な提案をしたりと、長い歴史を背景にした街との信頼関係が他大学との最大の違いだと考えています。
赤松:もちろんです。新キャンパスには「崇仁テラス」や「芸大通」と命名された開放的な空間があります。これは地域交流のためのスペースで、門も塀もないので、学外の方にも自由に出入りしていただけます。
近隣には、今キャンパスがある場所にお住まいだった方も暮らしておられますが、「家が取り壊されて寂しい気持ちもありますが、新しい校舎が建って若い人が行き来するようになり、夜遅くまで学生さんが制作しているのを見て、良かったなと思えるようになった」というお声をいただいたこともあります。
油画専攻では、1年次の授業で風景画を描く課題があるんです。沓掛にいたころはみんな周囲の山や柿畑などを描くことが多かったんですが、この場所に移ってからは、街中にイーゼルを立てて風景を描いている学生もいたんですね。
地域の方々はその光景を見てとても喜んでおられました。完成した絵を見ながら、「これはうちや」「ここは◯◯さんちだね」と嬉しそうに話し合っておられる様子も拝見し、どこかほっとしたのを覚えています。
大学の新しい使い方
赤松:私は出身が京都ではなく兵庫ですので、学生として初めて京都に来るようになったときに、街の方々からすごく大切にしていただいたのが印象的でした。
そうした温かい雰囲気のもと、先ほどの「テーマ演習」の話にも繋がりますが、学生が自主的に動き、場を活性化させることを期待しています。特に芸術の世界は「一歩踏み出さなければ何も始まらない世界」なので、学生たちもみんなそのことをよく分かっていると思います。
ただ一言に「動く」と言っても、仲間をつくって派手に動く学生もいれば、図書館に籠ってじっと何かを研究する学生もいます。そういう異なる志向性をもった学生たちが隣同士に座り、自分自身のやり方を確認して、相手のやり方も尊重する、そういうプロセスが大事だと思っています。
赤松:新しいキャンパスは以前に比べて何をするにしても便利になりました。京都市外から通っている学生も多くいますが、京都は駅とキャンパスを往復するだけではもったいない街です。
京都には、最先端の研究を扱う産業から伝統産業まで、さまざまな産業があります。どこに行っても「京都芸大の学生です」と言えば絶対わかってもらえますし、学生に自分たちの仕事を見せてくださる方も山ほどいらっしゃいます。
だから、駅に近くなり、時間に余裕が生まれたのであれば、朝でも夕方でも授業の合間の空き時間でもどんどん街に出て行って、文化財を見るもよし、地域の人と喋るもよし、街を活用してほしいと思います。
沓掛時代には制作に没頭できる静かな環境がありましたが、これから始まる崇仁時代には、また異なる「大学の活かし方」があるはずです。学生時代を京都という街で過ごせる醍醐味を、ぜひ一人でも多くの方に味わってほしいと願っています。
ご自身も京都芸大の出身者であり、絵画の実作者でもあるという赤松学長ならではの、実感のこもったお話を聞くことができた。
次回は、学生の卒業制作や教員の作品、そして画学校時代から収集されてきた参考作品など、合計4000点以上を収蔵する芸術資料館への取材記事をお届けする。
赤松 玉女(あかまつ・たまめ)
京都市立芸術大学学長。画家。1959年兵庫県尼崎市生まれ。1984年に京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻(油画)修了後、国内外の美術館やギャラリーでの展覧会を中心に活動。油彩、水彩、フレスコ技法など、画材や技法を組み合わせた絵画表現の可能性を研究。イタリアでの創作活動などを経て、1993年に本学美術学部美術科油画専攻教員に着任。2018年度から本学美術学部長。2019年4月から現職。2020年度尼崎市民芸術賞、2021年度亀高文子記念―赤艸社賞。