【連載】カーデザイナー・トム俣野とロードスターvol.2 プロトタイプ完成から量産まで

Dec 29,2017interview

#Miata

Dec29,2017

interview

【連載】カーデザイナー・トム俣野とロードスター vol.2 プロトタイプ完成から量産まで

文:
TD編集部

初代ユーノス・ロードスターのデザインを手がけたトム俣野氏へのインタビュー。前回に続き、第二回はユーノス・ロードスター(海外名:MX-5 、米国名:MX-5 ミアータ)の開発秘話を深く聞いていく。「面白い裏話が語られるクルマにしたかった」という俣野氏の計画通り、様々なエピソードが飛び出した。

聞き手:藤本 彰
画像提供:俣野 努 氏

(前回の記事)vol.1 初代ロードスターはこうして生まれた

本社からの反対の声を打ち消した、サンタバーバラでのテストラン

ミアータが開発された1980年代は、自動車市場からライトウェイト・スポーツカーが姿を消しつつありました。ミアータの開発にあたって、広島のマツダ本社から反対の声もあったのではありませんか。

俣野:もちろんありましたよ。通常の生産企画にあてはまらない企画だったので、新技術開発本部という部署から予算が出ていました。当時、新技術開発本部の本部長を務めていた松井専務も、量産に懐疑的だったんです。それでも僕らがあまりに熱心に推すものだから、ついに彼は「それほど言うんだったら、プロトタイプを作って実際に街で走らせてみろ」ということになり、そんな方法の市場調査など前代未聞でしたが、僕らはイギリスのIAD社に頼み、公道を走れるプロトタイプを作りました。

サンタバーバラでテストランをしたのが1985年の10月。トレーラーからプロトタイプを降ろした途端、人だかりができましてね。慌ててその場から逃げ出したのですが、街を走ると、みんなが歩道を走って追いかけてくるんです。そして、赤信号で停まった途端、質問攻めに合うんですが、まだ市場調査の段階だし、細かいことが説明できるわけもありません。

 
FRP(強化プラスチック)で作った初期のプロトタイプとテストラン時の写真(俣野氏提供)

ただ、日本のメーカーの車だということがバレないように、アメリカ人の社員に運転させました。反響はすごくて、ついには「俺のベンツの鍵を渡すから、お前の車の鍵をくれ」という人まで出てくる始末。松井専務もこの反響には驚いて「これは絶対に作るべきだ」と量産に肯定的になってくれました。その後、幾度となく開発計画が頓挫しそうになったのですが、彼のお陰で発売までこぎ着けることができたんです。

プロトタイプのデザインが出来上がるまでにも、紆余曲折があったのでしょうね。

当時のプランナーのボブは手で開閉する屋根を主張、僕は当時フィアット850に乗っていたこともあり、きれいに蓋の中に収納されるほうがいいと主張しました。また、最終的に方向指示器として落ち着いた「目」の部分ですが、本当はあそこにヘッドランプを入れたかったんです。ヘッドランプとエアインテークだけのシンプルなフロントにしたくて。でも、当時は実現するための技術がなく、ヘッドランプにすると大きくなり、カマロみたいに奥に引っ込ませる必要が生じました。さすがにそれは嫌だったので、方向指示器として残し、ヘッドランプはポップアップにしたというわけです。

クレイモデルにも直接手を入れた

ポップアップのヘッドランプはロードスターのトレードマークとなりましたね。
ミアータ・プロジェクトが本社での量産開発に移行し、出張で日本に行く機会がありました。進行中のクレイを見て、驚きましたね。ポップアップ・ヘッドランプが昔のRX-7のような真っ直ぐの、箱形のデザインで。
僕らが一生懸命、微妙な面構成で感情を込めたデザインを進めているのに、どうしてこんなにカクカクなんだって本社で噛みつきました。そして、「おい、ここちょっといじってもいいか?」って無理矢理手を入れて、最終的に量産デザインになった丸みのある愛嬌のあるヘッドランプを作ったんです。
モデラーには「福田さんが来たらこれを見せろ。絶対にOK出すから」と伝えておいたところ、本当に福田さんがOKして、デザインが決まりました。僕があの場に行かなかったら、ミアータはカクカクの箱形デザインで終わっていますよ。それにあの時、ハードトップもロータスそっくりのクォーターパネルになっていたんです。「うちはマツダなので、ロータスもどきを作ってもらったんじゃ困る」と横やりを入れて、テープを引きました。
クレイモデル制作の様子(俣野氏提供)

RX-7やR360クーペなど、マツダはリアウィンドーがサイドまで回り込んだデザインを持っているわけですからね。それも最終的には僕の案で決まりました。僕がたまたま出張に行ったからよかったけど、そうでなかったらロータスの物真似になっていたかもしれません。絶妙なタイミングで手を入れることができました。

当時の「当たり前」を全て覆す、細部へのこだわり

実は最初に本社で出来上がった最終デザインは、フラットな面構成のカチカチなお尻だったんです。だから市場調査の結果はアメリカでは評価が低く、逆にフロントは丸かったのでアメリカでは高評価、日本では不評でした。結局、予想販売台数が米国依存だったので、リアのデザインをこちらで直したんです。テールランプをわざと膨らませたのですが、あの当時、曲線のあるリアを持っていたのは、ロールスロイスのシルバークラウドくらいでした。そこで、ミアータもぱっと見ただけで他車との違いが分かるように作ったところ、ああいう独特のリアのトランク端末形状が出来上がりました。今ではほとんどの車がああいった面構成ですね。

日本のデザイン担当が田中俊治、俊ちゃんだったこともラッキーでした。彼は元々彫刻家で、当時のマツダ・デザイナーの中で最も面造形が優れていました。彼が途中から加わって一部手直しをしたところ、ハイライトが崩れたのですが、また一からやり直して面を整えたら、ハイライトがピタリと最初のデザインと同じ所に入ったと聞いてます。
リアエンドについても本当は理想とするものがありました。昔のアメリカ車のようにライセンスプレートをバンパーの下に置くことによって視覚的な重心を下げたかったんです。昔の車はライセンスプレートを倒してガソリンを入れるような構造になっていましたが、安全バンパーの時代になって、それが成り立たなくなりましてね。我々ならやってやれないことはなかったのですが、バンパーの質量を増やさないと安全基準を満たすことができず、かっこよく収まらないので、断念せざるを得ませんでした。
テールランプは最初からレンズに20-30%のティントをかけて、中の反射鏡やブレーキランプがあまり見えないように工夫しました。結果的にリアは、ライセンスナンバーとテールランプだけでシンプルなデザインに仕上がったと思います。

そうそう、余談ですが、ニューヨークのMoMA・近代美術館には、ミアータのテールランプが永久展示されています。後年、JALファーストクラスのデザインなどで有名になるイギリス人のロス・ラブグローブ氏が若かりし頃、『現在の我々にとっては単なる工業製品でしかないが、大昔にもしこのテールランプを砂漠の中で誰かが見つけたら、ものすごく珍しがって宝物として残されていったであろう』と評価してくれています。日本の自動車メーカーのパーツがMoMAに展示されたのは、ミアータが初めて。この後ボディソニックシートもカタログに加わりました。後には展示も検討されたのですが、残念ながらそれには至っていません。

MoMA美術館に展示されているロードスターのテールランプ。
「あれ、マツダの玄関に置いてあったやつじゃないか?」
 
 

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