聞き手:藤本 彰
画像提供:俣野 努 氏
カーデザイナー・トム俣野の原点
俣野:1947年に長崎市で生まれ、1歳10ヶ月の時に東京の練馬に引っ越してきました。その後世田谷に移り、地元の野沢小学校に入学したものの、東京学芸大附属小学校への補欠入学が決まり一学期で転校。数年後に渋谷に引っ越したこともあり、学芸大附属中学校には進まず、港区立青山中学校に入学しました。高校は中目黒の駒場東邦へ。振り返ってみれば、3~4年ごとに転居と転校を強いられていたので、そのたびに新しい友達を作らなきゃいけなかった。そのような経験が、どこの国に住んでも順応していけるような人格を形成したのだと思います。
僕には2つ下の弟がいるのですが、毎年2回、2人だけで長崎の祖母の家に行っていました。初めて行ったのは僕が小学3年生の時だったかな。東京駅で寝台車に乗り込んで、そこから二十数時間の汽車の旅。横浜を過ぎた辺りから名古屋弁を話す乗客が増え、その後も汽車が進んでいくにつれ、京都弁、大阪弁、岡山弁、広島弁と、乗客の言葉が変わっていくんです。その話にも耳をそばだてていると面白くてね。どこそこの弁当が美味しいとか、何々駅の牛乳がうまいとか。そうやって、自分たちが住んでいる所とは違った文化に触れたことが、後の人生に役立っています。
子どもの頃に色々な自動車に触れる機会があり、自然とクルマが好きになっていきました。振り返るとそこが原点かもしれませんね。
長崎に行くと、戦時中にゼロ戦のパイロットになるための訓練を受けたというおじがいたんです。ゼロ戦乗りはどこに不時着しても飛行機を自力で直せないとならなかったそうで、メカニックの知識にも長けていました。昭和30年代だったかな、おじはいろんな車の部品を集め、日産ダットサンみたいなトラックを自作していたんです。当時、石油店を営んでいて、その車で配達に行くんですよ。僕はその車の助手席に座って、一丁前にナビとかやってましたね。
おじがそんな自作トラックに乗っていた一方で、祖父はどういうわけかモーリス・マイナーを持っていました。赤いレザーが張ってあってね。
エアコンだけでなく、ウインドーウォッシャーがついていて、ボタン一つで雪が溶けるんだから、なんてすごい車なんだろうってこれまた感動しましたよ。いつの日かアメリカに行きたいという気持ちは、こうした環境の中で芽生えたんだと思います。
また、近所にはフランス帰りの画家さんも住んでいまして、その方がシトロエンの2CVに乗っていたんです。
そして、クルマ好きなら誰でもすると思いますが、幼稚園の頃から車の絵を描くようになりました。これが高じて理工学部に進みたいと思うようになり、成蹊大学に入学して経営工学を学びました。
18歳になるのを待ってすぐに自動車の免許を取得し、直後に初めて車を手にしましてね。1台目は自分でいろんなカスタマイズをしましたし、2台目の車は買ってすぐに塗装を剥がし、自分で調色したカラーで全塗装しました。今、自動車メーカーのカラー部門が行っているようなことを、自分でしていたんです。板金もお願いして、フロントのフェンダー・ミラーの穴を埋めたりもしていました。
大学を中退し、渡米。1度目の受験では不合格だった
大学に応用数学という科目があったんですが、担当教授は講義を全て英語で行っていたんです。この教授の英語の発音が耳障りなほど悪い(笑)。嫌悪感で自分の耳が閉じちゃって、3年生から4年生への進級を決める試験で落第して学校を辞めてしまったんです。ちなみに同時に専攻していたドイツ語も2週間目の試験で失格でしたが、十数年後にドイツで働くことになるなんて皮肉ですよね。
そうして大学を辞めた後、アメリカに行こうと考えました。しかし父親は超堅物で、東工大と一橋大と東大以外は大学じゃない、みたいな考え方の人でした。成蹊大学に進学した時点で父の価値観から外れていたのですが、アメリカ行きなんてもってのほか。一方で、母親が非常に開けた、柔軟な考えの人だったので許してもらえたんです。
米国大使館に行って尋ねたところ、カリフォルニアに「アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン」という学校があることを教えてくれました。しかし、受験のために作品を送ってみたところ、見事に不合格。「作品はうちのレベルに達していないし、英語の成績もまるでダメです」ってコメント付きで断られました。仕方がないから現地の英語学校へ通う前提でビザを取得。同時に美大に通って絵を勉強し、自信がついたらもう一度アートセンターの入学試験を受けようと計画し、渡米しました。