漆藝家・城端蒔絵の十六代 小原治五右衛門さんに聞いてみたUXのタテヨコナナメ vol.10

NEW Feb 14,2025interview

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漆藝家・城端蒔絵の十六代 小原治五右衛門さんに聞いてみた UXのタテヨコナナメ vol.10

文:
TD編集部 青柳 真紗美

デザインだけでなくビジネスやアカデミック領域からもUXを考えてみよう、ということで始まった当連載。第10回は、漆藝家で「城端蒔絵」(じょうはなまきえ)の継承者である、十六代 小原治五右衛門(おはら・じごえもん)さんとお話ししてきました。

TOP写真:©︎Kota Yamada
他、記事中の写真は全てご本人提供

以前の記事:UXのタテヨコナナメ vol.9 デザイナー・造本作家の駒形あいさんに聞いてみた
参考記事:どれくらい知ってる?漆塗の工芸品、漆器・漆芸

450年間、一子相伝で受け継がれてきたもの

治五右衛門さんは、現在の富山県南砺(なんと)市で生まれた「城端蒔絵」を代々受け継ぐ小原家の十六代目として作品を生み出して来られました。治五右衛門さんにとって、体験を生み出すとはどういうことでしょうか。

治五右衛門さん:城端蒔絵の作品を例に「体験」について考えるなら、やはり直接作品を見て漆(うるし)を感じてもらうことが大切かなと思うんです。そして、それもこちら側から仕掛けるものではないというか。美術館での展覧会だと難しいのですが、個展だとガラスケースが無い状態でご覧いただくことも多いです。漆を感じてみてください、と。

質感や持った時の感覚は見ているだけではわからないですよね。手に取ると皆さん、はっとした表情をするんですよ。
想像していた重さと違うとか、十二角形の面を、どこで合わせてもピッタリくるとか、吸い込まれるように蓋が閉じていく感じとか。どうしたらこんなことができるの?と聞かれることもあります。

作品が完成するまでには多くの工程があり、時間がかかります。まずは器の形と蒔絵で描く文様の意匠考案からはじまり、木地の制作、髹漆(きゅうしつ)の下地工程と塗り工程で約20工程、その後に加飾工程の「蒔絵」を行います。漆で文様を描き、その漆が固まらないうちに金や銀などの粉を蒔きつけた後に、漆で塗り固めて、研ぎ出して文様を表し、磨き上げて仕上げるという何十もの工程を経て作品が完成します。

映画であれば約2時間の鑑賞後の感想となると思いますが、城端蒔絵は、作品に描かれた一場面から未来や過去を想像したりたずねたり、作品に込められた技や素材や道具、それにまつわる歴史などから、長い時間をかけて積み重ねられた様々な要素を感じることができる。それは写真や映像では伝わり切らないもので、やはり実物を見て、触れてもらうことで自由に感じてもらえるのかなと思っています。

十六代 小原治五右衛門氏

小原家は、平安時代の宇多天皇の第八皇子、「敦實親王」を祖とする近江源氏・佐々木氏の流れを汲みます。武士であると同時に甲冑へ漆を塗ったりしていたと口伝で伝わっており、浄土真宗の僧侶だった初代の曾祖父・祐玄が、本願寺八世・蓮如の寺院建立事業の漆工に従事するため、越前から越中國(富山県南砺市)に移り住みました。

そして安土桃山時代、天正3年。初代 小原治五右衛門が漆による独自の装飾技法として城端蒔絵を確立させ、以降、一子相伝で450年間継承してきました。城端蒔絵の特色は天平の「密陀絵」の再現にはじまり、それに基づき治五右衛門独自の「白蒔絵法」を編み出し、城端の歴史と町人文化とともにあゆんできたという点にあります。

町人文化とともにあゆんできた、とは。

大名、お殿様のお抱え蒔絵師が「お殿様の好みのものを作る」というところからスタートしているのに対し、小原家は各代がそれぞれの時代で感じたメッセージを込めた作品や、城端町人のハレの日のために作られた作品が多く現存しています。
本来、蒔絵とは漆で描いた文様の上に金銀の粉を蒔き付ける技法ですが、当時加賀藩では加賀蒔絵を保護するために藩外での金銀の使用を禁じていました。そこで治五右衛門は漆で出せる色をとことん研究しました。朱、黒、黄、茶、緑の5色しか出せない時代に「純白」をはじめとする鮮明な中間色や「ぼかし」の技法を生み出したのです。

一子相伝での教えには様々な意味があります。弟子を必要以上にとらず、自ら家元と名乗らず、人間関係をピラミッドにせず。永遠の学びと成長と繋がりが先祖の生き様から見て取れると常々思っています。
我が家には江戸時代に描かれたデッサンノートのような図案が無造作にたくさん残っています。説明や指示は一切書かれていませんが、温かみがあり、歴代の五右衛門の「絵心とはこういうものだ」という不変の教えが時代を超えてここに描かれているような気もします。
大量生産が必ずしも悪いとは思いませんが、一つのものが手仕事から生み出される過程や歴史、昔の人たちの智慧や守ってきたことを自分も大切にするといったことが、もの自体を特別にするのかもしれません。

江戸時代に描かれた下図

人生初めての落選作品が世界への足がかりに

治五右衛門さんの現在の取り組みについてもう少し聞かせてください。

治五右衛門さん:先ほどもお話しした通り、450年間続く城端蒔絵の十六代目です。代々襲名しますが、戸籍の名前も治五右衛門に改名しますので、運転免許証も保険証も治五右衛門です。病院などで名前を呼ばれて僕が出ていくと二度見されます(笑)。
ユネスコ無形文化遺産に登録されている「城端曳山祭」で巡行する6基の曳山や庵屋台などの制作(江戸時代に、七代 治五右衛門から親子四代にわたって制作)や修復をはじめとした文化財修復の仕事をしながら、自分の作品作りに取り組んでいます。

本格的に蒔絵の勉強を始めたのは高岡工芸高校からです。木工・金工・漆芸と3つのコースで工芸に触れて、漆を専攻しました。高校を卒業後は、石川県立輪島漆芸技術研修所へ入学しました。重要無形文化財保持者ーいわゆる人間国宝や日本工芸会の先生方、輪島塗の先生方が基礎の基礎から徹底的にご指導くださり、輪島で3年間、塗りと蒔絵を学びました。そして2000年に城端に戻り、父や祖父から家伝を学びました。

初期の作品で、酷評を受けたものがあると伺いました。

治五右衛門さん:2013年に制作した『曙光 – Python Ⅰ』ですね。それまで、日本の四季や花、動物といった伝統文様を描いていたのですが、あるとき、この作品を作りたい! と思い立ったのです。しかし、発表してみると「なんだこの蛇は?!」と。こんな蒔絵は見たことがない、と言われ……翌年に出品したのが、もっとグロテスクな作品(笑)。毎年出品するのですが、これが僕の人生で初めての落選でした。

十六代 小原治五右衛門 治五右衛門塗八角箱《曙光 – Python Ⅱ》平成26年(2014)

しかしそこから数年経って、これらの作品は期せずしてニューヨークで展示の機会を得ることとなります。
ある時、元メトロポリタン美術館の学芸員の先生が、僕の作品を見たいと言って下さって、日本でお見せすることになったんです。その時、悩んでいました。やはり桜や紅葉など、伝統文様の作品にとどめた方がいいのかなと。でもあえて、その落選した作品をど真ん中に置いてみたんです。すると興味を持ってくださり「これは蛇ですよね。なぜこのような柄で作られたのですか?何か特別なテーマがあるのですか?」と。この作品についてこう聞いてくださったのはその方が初めてでした。

僕にとって初めて、この作品のテーマについてお話しする機会をいただいた瞬間でした。
「『脱皮できない蛇は滅びる』。哲学者ニーチェの言葉です。伝統も脱皮していかないと滅びてしまう。それがこの作品を作った2013〜14年の僕のテーマでした」と。日本では酷評でしたが、僕の中では作ってよかったと思える作品だったんです。

そこから海外での展示や、受賞が続いていますね。

治五右衛門さん:はい。ニューヨークのギャラリーでの展示を皮切りに、バカラホテルでも展示していただき2016年にはアジア・ウィーク・ニューヨークにも選出されました。ワシントンD.C.の日本大使館でも飾っていただいたり、香港やインドネシアなど、海外での展示が続いていったんです。そうするとおかしなもので、あれだけ酷評していた方々が「いやぁ〜君はやると思っていたよ〜」とかね(笑)。それで、やっぱり自分が感じたことを大切にしてよかったと改めて思えたんです。

小原家は16代続いていますが、それぞれの治五右衛門が違う個性を持っています。例えば二代目は医師でもありましたし、七代目は和歌・俳諧も嗜む歌人であり彫刻家でもあった。八代目は天文学と蘭学に通じていて天体観測をする際に使う道具を作ったりもしています。作品に説明書きがあるわけではありませんが、200年、300年と残っている作品を見つめてみると作者の生き様や考え方が見えてきます。幼い頃、レオナルド=ダヴィンチやミケランジェロを知って「うちの先祖みたいな人たちが海外にもいたんだな」と思ったのを今も覚えています。

八代 小原治五右衛門《渾天儀》文化9年 (1812)
径45.8 × 高52.0 ㎝ 南砺市指定文化財

何が言いたいかというと、15人いた過去の治五右衛門たちはみな、治五右衛門になろうとはしていなかったということ。自分がどう感じるかをすごく大切にしていた。それが治五右衛門であり、だからこそ「人がどう感じるか」も大切にしてものづくりをする人たちだったんじゃないかな、と。

自分の中にあるものに嘘をつかない

良い体験を生み出す上で大切にしていることや、ルールはありますか?

治五右衛門さん:先ほどの話に通じますが、その時々の自分の中にあるものやストーリーに嘘をつかない、ということでしょうか。
最新作では日食と月食を描いています。城端蒔絵は今年、450周年の節目の年です。その歴史に思いを馳せると色々なことに気付かされます。我が家は長寿の家系で、人生50年と言われていた時代に、歴代治五右衛門の多くは70歳、80歳でも元気に活動していました。祖父は「漆をやってると病気にならない」とよく話していて、医学的根拠はないんですが、じゃあなぜ先祖の人々は漆を選んだのだろう、とも考えたり。何かしら、必要だったからこそここまで続いているはずなんです。他にも、それぞれの治五右衛門の作品を見ていくとさまざまな問いが生まれてきます。なぜこの人は天文学を研究したんだろう、とかね。

次世代に押し付けるつもりはなくても、作品を通じて何かが伝わっていくと考えたときに、450年を迎える前に、城端蒔絵の脱皮と深化を感じる光の移り変わりを描こうと思いました。
小原家で受け継がれてきた白蒔絵法という純白と色ぼかしの秘法を用いて、光の輝きと太陽を縁取る炎の揺らぎを描き、城端蒔絵の未来を表現しました。

十六代 小原治五右衛門《城端蒔絵飾箱「Eclipse」》令和6年 (2024)
縦24.2 × 横24.2 × 高9.5 ㎝
第71回 日本伝統工芸展 日本工芸会新人賞

作品の制作期間は約1年。漆器の産地では分業制でつくられることもありますが、僕は指物(さしもの)や轆轤(ろくろ)での木地制作は図面(複式投影図)を描き木地師さんにお願いしますが、その他の工程は完成まで一人で行います。その一貫した作業から、作品制作は「十月十日」の人間の命の誕生に近いと感じるんです。

今僕がいるこの工房が母胎であり、羊水に満たされた空間だという感覚を持っています。そこで、その水の流れをイメージして、飾箱の周囲の十二角にフリーハンドで描きました。通常は型紙に描いてから転写するんですが、この作品は感覚で描いて観ました。
また、城端蒔絵の作品の蓋の甲面にはお花や鳥などのモチーフを描くことが多いのですが、この作品の中心は漆黒です。漆黒の中で観てくださった方々が、それぞれの人生に置き換えて未来への想像が膨らむような、「委ねる」作品をつくりたいと考えました。

鑑賞者に、ひとつの作品を通して体験を提供しているように感じます。作品のコンセプトやストーリーは、後から湧いてくるものなのでしょうか。それとも先にアイデアがあって、それを描いていくのでしょうか。

治五右衛門さん:僕の場合は同時に湧いてくる感じですね。ぼーっとしていると、ある時一気にやってくる。そして「ちょっと待て、落ち着け俺の感情」と(笑)。気持ちはすでに早く作りたい、と駆け出しているんですが、じゃあどういう形にしようか、どういう技法で表現しようか、寸法はどうしようか、道具は?と……同時進行で考えていきます。そうなるともう、半日くらいで紙で本物そっくりのプロトタイプを作ってしまうんです。江戸時代には下図を作ったりしていたのが見てとれますが、僕は結構立体を作ります。その作り方のプロセスも千差万別で、代ごとに違いがあるのは面白いし、それらを考えていくこと自体も進化していくことなんだと思います。

祭りの力と本質

この体験は素晴らしい、という例があれば教えてください。

治五右衛門さん:僕はとにかく祭りが好きですね。神様を囃(はや)して、悪いものに退散してもらうと同時に、そこに町人が没頭することによって喜びを分かち合うという祭りの本質があると思います。加えて、ものづくりは利他的な行為でもあり、主要部分のほとんどは地元の工人たちで智慧を出し合い、力を合わせて作られています。その人間関係も美しいです。

小原家では七代 小原治五右衛門から十代 小原治五右衛門まで親子四代にわたり曳山や庵屋台などの意匠設計や髹漆に力を注ぎ、七代目の盟友である荒木和助は御神像をはじめとする人形彫刻を手がけ、以降代々の治五右衛門が修復に携わってきました。それは自分の作品を作るためではなく、この土地に根付く文化や神々に捧げるための技術なんです。
祭りのクライマックスでは六基の曳山が180度方向転換する「帰り山(かえりやま)」が行われます。僕にとっては一年の感謝に深く浸る瞬間であり、同時に新たな一年の希望を持つ瞬間でもあります。

城端曳山祭の「帰り山」

今でも覚えているのが、小学生の頃、親友と曳山胴部に隠れてこの「帰り山」を味わったこと。少年時代で一番興奮した体験です。でも、祭りに関わる特別な体験って、この地域の人たちはみんな持っているんじゃないかな。ユネスコ無形文化遺産や重要文化財とか認定の有無で甲乙はなく、祭はそこに暮らす人にとっての世界一だと、お互いの文化を敬うことができれば世界は平和になるんじゃないかと思います。

氏子である自分達が儀式を執り行う。ハレとケが日常の中にある。そうして温故知新じゃないけれど、これまで積み重ねられてきた歴史を知った上で今を見つめる、というのは特別な体験だと思います。何が進化して、何が退化したのか。昔の人たちはどんな感度を持っていたのか。時代を行ったり来たりしながら考えてみると、たくさん見えてくるものがありますよ。

「体験」を仕事で考える人や読者に向けて、世界を広げるためのアドバイスをいただけませんか。

治五右衛門さん:伝統は「統(スジ)を伝える」と書きます。ここでいうスジとは、過去のものではなく、過去からつながる「今」を生きる僕たちが持っているものです。16代続いているからそれがある、ということではなく、自分が感じたことを自身の言葉や感性で伝えていくということが大事なんですよね。知識は外側から得るものですが、智慧は「絞る」というじゃないですか。だから勉強ももちろんいいですが、感じたことをそのまま伝える、形にする、ということを続けていくことが大事なのではないかと思います。

赤ちゃんほど藝術家だ、といつも思います。例えば紙とクレヨンが目の前に置かれた時に、大人は勝手に「この紙に全てを納めなければ」と決めてしまいます。それだけでなく、その絵を目にした人が美しいとかかっこいいとか言ってくれることを考え始めたりもしてしまう。だから、赤ちゃんになったつもりで考えてみましょう。いや、考えずに描いてみましょう、と言ったほうが正しいかもしれませんね。

おすすめの本などがあればぜひご紹介いただけませんか。

治五右衛門さん:これ、と決められないのですが、地元の歴史の本が好きですね。世界史より先に城端史を学べというのが我が家の教えです。この工房にもたくさんあります。マニアックですよね、Amazonのリンクもないんですが(笑)。

今後の展開をぜひ教えてください。

治五右衛門さん:2025年、城端蒔絵は450年周年を迎えました。今年は、城端の歴史とともにあゆんできた歴代の治五右衛門を多くの皆様に知っていただければ幸いです。秋には南砺市立福光美術館で城端蒔絵450周年を記念した歴代作品展(9月13日〜10月26日)を、冬には日本橋三越本店での個展(12月17日〜22日)も決まっており、国内外の方々にぜひ見ていただけたらうれしいです。

最後に、体験やUXについて、この人に話を聞きにいくと面白いよ、という人をひとりご紹介いただきたいのですが。

治五右衛門さん:僕の親友の一人で、今ニューヨークに住んでいるYoshiko “Yoppi”という歌手がいます。素晴らしい歌唱力で魂を込めたすごくいい歌をたくさん作るんですよ。歌ってない時のギャップもすごいですが(笑)。僕の襲名記念展のパーティーでも歌ってくれて感動しました。体験を作るというテーマで、歌手の視点は面白いのではないかと思うので、ぜひ聞いてみてください。

襲名記念展で歌うYoshiko “Yoppi”さん
ありがとうございました!

今回のまとめ

漆を用いた芸術、「漆芸(藝)」。その装飾技術である蒔絵をまさに今この瞬間に継承し続けている治五右衛門さん。
道具としての完成度、細部に至る美意識、そして精神性を含め、長い年月をかけて受け継がれていくものの中に、日本のものづくりの魂を見た気がします。そして、治五右衛門さんが語る言葉や視点の一つ一つに、その魂が反映されているようにも感じました。

・触れることで、過去や未来を想像し、歴史を感じる。

・自分がどう感じるかを大切にすることが、他者の感じ方を尊重することにつながる。

・作品から自然に伝わっていくものを信じ、鑑賞者に委ねる。

自身の制作活動や文化財修復の仕事に取り組みながら、TEDxや教育機関での講演など、次世代に向けた発信も続ける治五右衛門さん。その存在自体が日本の伝統文化をアップデートする象徴であり、彼の視点から生み出される漆器は、作品という枠を超えて日本の伝統工芸の今を体験するための一つのメディアになりうるのではと感じたインタビューでした。

 

十六代 小原治五右衛門

安土桃山時代・天正三年(1575)から一子相伝で継承する「城端蒔絵」の十六代目。代々「小原治五右衛門」の名を襲名し、天覧品や奉納品、茶道具などを制作。日本、ニューヨーク、ワシントンD.C.、インドネシア、香港など国内外での展覧会活動や、城端曳山祭で巡行する曳山・庵屋台などの文化財保存修復に従事。また、TEDxをはじめ国内外での講演やプレゼンテーションにも登壇する。令和元年(2019)「十六代 小原治五右衛門」を襲名。令和5年(2023)「一般社団法人 小原治五右衛門 城端藝術文化機構」を設立し、代表理事に就任。

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