前回の記事:UXのタテヨコナナメ vol.7 場づくりのプロ、竹丸草子さんに聞いてみた
一人ひとりの経験を起点とした体験型の学び
岡野さん:博物館や美術館であれば、来館者自身のこれまでの経験や知識を考慮し、新たに出会う作品や展示物に、どう意味を見出せるかを考える、ということでしょうか。
ミュージアムにおける教育プログラムを考えるときに大切なことは、来館者の年齢や発達段階はもちろん、文化背景や宗教など、それぞれが異なった知識、経験、能力を持っていることを前提とすること。文化や言語の違いは世界に目を向ければ顕著ですが、日本においては、来館者一人ひとりが違った経験を持ってきていることに意識が及ばないことも多いと思います。近年「ダイバーシティ」という言葉がさまざまな分野で語られるようになりました。異なる経験や能力を持った人々が、博物館や美術館を訪れ、豊かな体験をできるかどうか、ミュージアム側が丁寧に考え、環境をつくることが重要な時代になってきています。
博物館という社会教育機関では、誰もが自由に訪れ、楽しみ、癒される場であってほしいと思いますが、そこに「学び」を含む体験があることが一つの特徴といえます。アメリカの教育哲学者であるジョン・デューイによる『経験と教育』(岩波文庫)では、「教育的経験」と「非教育的経験」の違いが語られています。端的に言ってしまえば教育的経験とは、その場で終わらず次につながる経験であり、博物館訪問の後も学びが続いていくこと。そのような経験ができる環境を用意する人は、とても思慮深くなる必要があると言えるかもしれません。
岡野さん:一方的に教えるのではなく、学び手の経験から出発し、導いていくということでしょうか。日本の伝統的教育は長年、知識中心型だったと思うのですが、2002年の教育改革あたりから、欧米の美術館で生み出された「対話型鑑賞」のように、学び手の経験から対話をはじめ、展開していく鑑賞教育が注目されてきました。
私自身はニューヨークの大学院で博物館教育や美術教育を学びましたが、学習者の経験を起点とした体験型の学びの重要性は、アメリカで暮らしてみなければ理解できなかったと思います。例えば、私が教育実習を行ったのは移民都市であるニューヨークの小学校。そこでは人種も育ってきた文化も違う、多様な背景を持つ子どもたちが1つのクラスルームで学んでいて、必然的に体験重視の学びの環境となっていきます。なぜならその子どもの経験によって、物ごとの捉え方は一人ひとり異なるから。
「移民の歴史」について学ぶ際には、教室の一角に世界地図を展示し、子どもたちの祖父母のルーツまで探っていきます。教室内で子どもたちの家族の移民史を視覚化し、それぞれ家族の宗教や文化、食べ物まで、まずは、学び手それぞれの経験について考えます。その後、ニューヨーク市にあるロウワー・イースト借家博物館や在米中国人歴史博物館などを訪れ、移民の人々の生活や感情に触れます。子どもたち自らの経験と歴史がつながることで、学習テーマへの興味や関心も自然と高まっていきます。体験型の学びが、民主主義社会の担い手を育てていくことに、いかに社会のありようにかかわっているかを肌で感じとる機会でした。
思慮深さの必要性
岡野さん:まず企画する側が念入りに準備することが大切と思います。なぜこれを見せたいのか、なぜこれを経験して欲しいのか。それらを、じっくりと考えてみる。
美術館におけるギャラリートークでも、いくら解釈や答えは1つではないと言っても、(トークを担当する人に)作品の知識がなければ良いギャラリートークはできないと思うのです。そして、その作品の本質的な部分や、鑑賞者に気づいてもらいたい部分、一緒に考えたい部分をどう導いていくかを整理していく。ガイドする人自身がその作品に興味を持っているかも重要になってくると思います。
もちろん、そこで生まれる体験は来館者とともに展開していくものです。ただ来館者がどのような知識、経験を持って参加するか、その時々で何が起こるかはわからないので、やはりある程度の準備をし、いろいろな展開に対応できるようにしておく必要があります。
学校と美術館・博物館の連携事例などを見ていてもそれは感じます。授業をしやすいように学芸員が色々な知識や情報を共有しても、先生方も忙しく、なかなか準備する時間が取れない。結果的に早足で美術館を回って、なんとなく「行ってきました」で終わってしまうこともあります。一方で、作品を自分自身で調べて、子どもたちになぜこれを見せたいのかを明確に持ってくる先生もいる。そうなると、子どもたちの経験の質は変わってきます。
近年では、障がいのある来館者にとっての美術館体験を考える機会も増えていると思います。例えば、愛知県美術館では視覚障がいを持っている方に向けたツアーを長年運営されています。見えない人が作品を視覚化できるよう、学芸員さんとボランディアさんたちが何度もミーティングを重ね、内容と言葉を選び抜いて、時間をかけて準備をされています。現場で使われる資料も点字化され、参加者が持ち帰ることができるようになっています。こうした配慮によって、来館者は自宅に戻ってからも、美術館での体験に立ち戻ることができ、他の美術館に行った時にもそれが次の経験につながっていくのだと思います。
岡野さん:もちろんです。以前勤務していたベルナール・ビュフェ美術館では、1999年に「ビュフェこども美術館」を併設しました。美術館空間になかなか親しめない幼児から小学校低学年までの子どもたちを対象として、子どもたちの発達段階や居心地のよさを重視した体験型の展示空間をつくりました。五感を通して素材や美術作品と出会いワークショップも行える、家族で一緒にアートに触れる場です。これまで美術館を訪れる習慣がなかった家族がリピーターとして訪れてくれるようにもなり、美術館体験における空間、ハード面の影響を感じられる機会でした。
当時から、幼い子どもたちにはまず美術館という場に親しんでもらいたい、何度も訪れ、自分たちの居場所があることを感じてもらいたいと考えていました。一番嬉しかったことは、当時親御さんに連れられて来ていた子が成長し、お母さんになって、ご自身の子どもを連れて戻ってきてくれたことです。美術館体験というのは、なかなか視覚化、データ化が難しいのですが、その効果を実感することができた瞬間でした。
触覚で「みる」
岡野さん:ヴァンジ彫刻庭園美術館では、作家であるジュリアーノ・ヴァンジ自身が「子どもたちには幼い頃から彫刻に触れて、そのフォルムを感じてほしい」と願っていたこともあり、設立当初から、来館者は屋外の展示作品に触れることができました。絵画には触れることはできませんが、彫刻の多くの素材は、それを可能にします。
手で触れて「みる」鑑賞方法を「触察」といいます。視覚に障がいがある来館者に対し、晴眼者が代わりに見て言葉で伝えていくという鑑賞は多くの美術館でも行われるようになりました。しかし、彫刻など本物の作品に触れ、触察できる美術館は限られています。私たちが行ってきたのは、見える人も見えない人も一緒に彫刻作品に触れて、みて、語り合えるような鑑賞です。見える人の方が見過ごしていたり、よく見ていないことも多く、視覚に障がいのある来館者から学ぶことはとても多いです。
岡野さん:ヴァンジ彫刻庭園美術館にて、視覚に障がいのある方々のプログラムを始めるきっかけとなったのは、ヴァンジさんを通じて訪れた、イタリア中部に位置する「国立オメロ触覚美術館」でした。視覚に障がいのあるご夫妻が設立した美術館で、全ての彫刻作品に手で触れて鑑賞できます。
通常、美術館と呼ばれる施設では、文化財を後世に残すため展示物に触ることは禁じられています。オメロ触覚美術館では、活動に賛同した作家たちや関係者が作品を寄贈し、古代ギリシャや古代ローマの彫刻からミケランジェロに至るまで原寸大の石膏などでつくられた精巧なレプリカや現代作家の作品などが展示されており、来館者は本物の作品に手で触れることができます。最初はオメロ触覚美術館の活動や触察の様子を当館の学芸員たちと共有するためにカメラを回したことから始まり、さまざまな経緯を経て映画になりました。
ICOM(国際博物館会議)という非政府組織が3年ごとに博物館の定義を見直しているのですが、2022年のプラハ大会の新定義でようやく、すべてのミュージアムがインクルーシブであるベきことが明記されました。そのことによって、世界の博物館・美術館で障がいのある来館者を対象とした活動への関心が高まってきているといえます。オメロ触覚美術館は、30年以上前に1993年にマルケ州と視覚障がい連盟の支援を受け開館し、1999年には国立美術館になっているので、時代がようやく彼らに追いついてきたといえるかもしれません。 現在では、障がいの有無にかかわらず多くの来館者が訪れ、学校の課外授業の場としても活用されています。
岡野さん:そうですね。でもただ触れば良い、ということでもなく、そこに寄り添う言葉、対話があることも大切で……また、触れることの効果は、来館者それぞれで異なるともいえます。
視覚に障がいのある方々にとっては、手で触れること=みるということ。美術作品のフォルム、その表現を感じ取るために、手で触れる必要があります。幼い子どもたちにとっては、五感を使って、とくに触覚を通して世界を知ることが発達段階上適しているということ。また視覚に障がいのない大人も、触覚を使うことで、一つの作品とじっくり向き合うことが可能となり、記憶に残りやすいという方も多いです。
視覚以外の感覚で世界と出会おう
岡野さん:UXというか、展覧会の話になりますが……2021年秋に国立民族学博物館(以下、みんぱく)で開催された、特別展「ユニバーサル・ミュージアムーさわる!”触”の大博覧会」は、ミュージアムの世界でも画期的な試みでした。現在も全国の美術館への巡回展を行っています。本展覧会を監修されたのは国立民族学博物館にいらっしゃる全盲の文化人類学者・廣瀬浩二郎教授で、「展示作品に触れられないのはおかしい」と、2006年からユニバーサル・ミュージアム研究会を立ち上げ、全国の博物館関係者、大学の研究者たちと触れられる資料の展示、研究を始めました。
みんぱくでの展示はコロナ禍で開催され、さまざまなご苦労があったと伺いました。触る展覧会なのに触ってはいけない世界になってしまった。来館者はマスクと手袋を装着して、オープニングの日を迎えたのですが、最終日近くには長蛇の列ができるほど盛況だったそうです。
私が岡山の巡回展を見に行った時には、幼い子どもたちとそのご家族が一番楽しそうに、積極的に展示物に触っているのを見て、心を動かされましたね。広瀬先生が目指しているのは、子どもから大人まで、障がいのある人もない人も全ての人に開かれた「ユニバーサル・ミュージアム」で、視覚以外の感覚で世界と出会うこと、その豊かさを伝えたいのだと思います。ユニバーサルな展覧会が、今後どう展開していくか楽しみです。
岡野さん:ダイバーシティやインクルーシブという言葉が普通に聞かれる時代になったと思います。特に若い世代は、この分野に関わっていく機会が増えてくると思うので、先ほどお話しした「ユニバーサル・ミュージアム」展のカタログ(小さ子社)や『ユニバーサルミュージアムへのいざない』(三元社)からは、「視覚以外の感覚で世界と出会う」ということが社会の中でどう実践されているか、さまざまな事例を具体的に知ることができると思います。
書籍では、海洋生物学者・レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)をおすすめします。60年以上前に、環境破壊にいち早く警鐘を鳴らした『沈黙の春』(新潮社)を執筆された方ですが、本書では、自然科学を単なる知識としてだけでなく、自然の中に入っていって「体験」として知ることの大切さを詩的な文章で語りかけてきます。日本語訳を長年カーソンの研究をされてきた上遠恵子さんが手がけられていて、文学的にも美しい翻訳は、さまざまな感覚に訴えかけてきます。また、2021年に刊行された文庫本では、写真家・川内倫子さんが撮影した自然とカーソンの文章が響きあい、いろいろな感覚を使って世界と出会うことの大切さやその方法に触れられると思うので、幅広い分野の方に手にとっていただきたいです。
岡野さん:駒形あいさんをご紹介します。映画『手でふれてみる世界』の関連絵本を制作くださった方で、世界的に著名なデザイナー・造本作家の駒形克己さんの娘さんでもあります。克己さんはポンピドゥーセンターに依頼され、視覚障がいを持つ方々のための絵本も手がけられ、あいさんは駒形さんの世界を引き継いで、これからの時代を担っていく方。ご自身も「手(イタリア語でle mani)」というテーマで触察本を制作中で、これから出版に向けて動かれていくのだと思います。きっと話も弾むと思いますよ。
今回のまとめ
これまで数多くの展覧会や博物館を訪れてきましたが、数年経ってもずっと心に残っている体験と、ただ通り過ぎていっただけの体験と、何が違うんだろう? と密かに疑問を感じていました。「教育的体験」と「非教育的体験」という二つの枠組みを岡野さんに教えていただいたことで、その答えの一部と出会えたような気がします。
家に帰っても、何年経っても続いていく教育的体験の裏側には、環境を用意する人の念入りな準備があると聞き、前回の竹丸さんのお話を始め、体験を設計する人々の目に見えない努力を改めて感じとり、目を覚まさせられるような気がしました。
・その場で終わらない「次につながる経験」を生み出す
・教育的体験を生み出すために、環境を用意する人は思慮深くあれ
・同じ「触る」体験の効果も人によって異なる
長年、美術館の運営に携わりながらさまざまな企画を立ち上げてきた岡野さん。穏やかな語り口の向こう側に、博物館や美術館を通じた教育的体験に対する強い情熱を感じたインタビューでした。
岡野晃子(おかの・こうこ)
1973年生まれ。バンク・ストリート教育大学博物館教育研究科修士課程修了、コロンビア大学大学院美術及び美術教育研究科修士課程修了。ヴァンジ彫刻庭園美術館にて「センス・オブ・ワンダー もうひとつの庭へ」、「すべてのひとに石がひつよう 目と、手でふれる世界」(日本展示学会賞受賞)など企画。視覚にとどまらない感覚による美術館教育の可能性を研究。その一環として、ドキュメンタリー映画「手でふれてみる世界」を制作。