美大時代のスケッチ、大公開
design surfのオープニングを飾った中村史郎氏の講演。冒頭、中村氏は「クルマの未来の話は現役に任せて、今回は、これまであまり話したことのない内容をお話しします」と切り出した。それからの1時間、43年間にわたるカーデザイナーとしての半生を振り返った。人生の転機となった出来事から手がけたモデルに込めた思いまで、ときにホンネも飛び出しながら、中村氏が辿ってきた道のりが明かされた密度の濃い時間だった。
スクリーンに映し出されたのは、2枚のスケッチ。はじめにスクリーンに映し出された1枚のスケッチは、中村氏が美大生のころに描いたもの。2枚目のスケッチは1974年いすゞ入社後のものだ。
中村氏がいすゞ入社後に最初に携わったのが「アスカ」。これはOPEL、GMと共通のプラットフォームを使ったモデルで、両社のモデルと各部を共通化している。このときグローバルでのプロジェクトの進め方を身をもって体験したという。
一方で、共通化を進めるあまり効率優先でカスタマー不在になる場面も目立ったと感じた中村氏は「20代半ばにしてカスタマーのことを考えたモノづくりを反面教師的に学んだ」と振り返った。
世界のライバルとの出会い
1980年、30歳の中村氏に転機が訪れる。アート・デザインの名門校でカーデザイナーをはじめとして多くの著名人を輩出しているArt Center College of Designへの留学だ。
カリフォルニア州パサデナでの生活から「2つの収穫があった」と中村氏。ひとつは、肉体的、精神的に「どこまで自分を追い込めるか」を身をもって体験したこと。もうひとつは、(後にBMWのチーフデザイナーとして活躍する)クリス・バングル氏など、良きライバル関係となるクラスメイトと出会ったこと。友人として、ライバルとして、どこかでお互いに意識し合いながら仕事をしていたという。
同校を首席で卒業した中村氏は35歳のときグループ内のGM(ゼネラルモーターズ)に勤務。
「5年ごとに転機が訪れる」という中村氏は、その後いすゞ欧州スタジオへ移籍し、40歳のときにコンセプトカー「4200R」を手がける。ロータスに在席していたジュリアン・トムソン氏、サイモン・コックス氏といった名だたるメンバーとともに手がけたプロジェクトとなった。
同じいすゞ欧州スタジオで手がけたのが、先進的なデザインで今も熱狂的なファンを持つSUV、「ビークロス」。もともと「コンパクトなFFハッチバックをベースにしたクロスオーバー」というコンセプトで、後に手がける日産ジュークの源流ともいえる。
市販車(下)はSUVのビッグホーンをベースとしたため大型化したものの、デザイン面ではコンセプトをかなり忠実に残している。
量産のデザインはサイモン・コックス氏と2人で手がけたそうだ。
4200R、ビークロスと、今でも名デザインとして語り継がれるクルマを手がけた中村氏だが「この時代は、正直お客さまとの関連についてはあまり考えていなかった」と反省する。その後アメリカいすゞで商品企画の職に就いたことで「ビジネスとどうつなげるか」という視点の大切さを考えるようになった。